漢詩紹介

読み方

  •  小楠公の墓を弔う <杉 孫七郎>
  • 南朝の命脈 一糸懸かる
  • 身は死し家は亡びて 名は永く伝う
  • 限り無きの秋風 湊川の涙
  • 也此の地に来って 灑ぐこと澘然
  •  しょうなんこうのはかをとむろオ <すぎ まごしちろう>
  • なんちょうのめいみゃく いっしかかる
  • みはししいえはほろびて なはながくつとオ
  • かぎりなきのしゅうふう みなとがわのなみだ
  • またこのちにきたって そそぐことさんぜん

詩の意味

 足利勢によって攻め立てられた南朝の運命は、一本の糸、すなわち楠公一族にかかっていた。今は楠公とその一族も死に絶えて、亡びてしまっているが、その名は永く伝えられている。

 限りなき寂しさを誘う秋風の中、その霊を弔うべく湊川を訪ね、大楠公の忠烈に泣いてきた。今また四条畷(なわて)の小楠公の墓の前に立って、さらに同じ感慨を以ってさめざめと涙を流すのであった。

語句の意味

  • 小楠公墓
    楠正行(まさつら)の墓 大阪府四条畷市雁屋南町にある
  • 一糸懸
    一本の糸の如く楠公一家にかかっている
  • 此 地
    四条畷の地
  •  灑
    流す
  • 澘 然
    さめざめと涙の流れるさま

鑑賞

  遺訓に殉じた青年小楠公の墓を弔う

 建武の中興で九州へ敗走した足利尊氏軍は、再びもりかえし京都へ迫った。南朝に忠誠を誓う楠正成は、かなわぬ戦と知りながら湊川に向かい戦死する(湊川神社)。その子正行は、12年後成人して、父との約束を守り、南朝に忠誠を誓い足利軍高師直(こうのもろなお)に立ち向かい四条畷で戦死する。(小楠公墓・四条畷神社)親子二代に亘って天皇への忠義を尽くした2人。

 この詩では特に転句の「無限秋風」が好句である。止むことのない秋風のもの寂しさ、哀れさが涙を誘う。すなわち勝ち目のない北軍との戦いと知りつつ、勅(みことのり)を貫く空しい忠義心を読み取ることができる。そして父の遺訓に殉死(じゅんし)した正行にさらなる涙を催す作者の心情がひしひしと伝わってくる。

備考

 「桜井の別れ」で父正成と別れた正行は、12年後成人し、足利軍の高師直に立ち向かい、四条畷の戦に向かう途中、吉野の後醍醐天皇陵(延元陵)に詣でた後、如意輪堂の壁版に143名の名を鏃(やじり)で書き連ね最後に辞世の句を書き記した。「かえらじと かねて思えば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」

 四条畷の戦で戦死した正行の頭の無い遺体に地元の人々は両脇に2本の楠を植えて正行をねんごろに葬った。一方正行の頭は京都に持ち帰られ、正行を尊敬する足利二代将軍義詮(よしあきら)によって、京都嵯峨野の宝筐院(ほうきょういん)に葬られ、後に義詮自身の墓もこの寺の正行の墓の横に建立され、二人の墓が仲良くならんでいる。

詩の形

 平起こり七言絶句の形であって、下平声一先(せん)韻の懸、伝、然の字が使われている。転句は挟み平になっている

結句 転句 承句 起句

作者

杉孫七郎  1835~1920

  明治から大正時代の政治家・学者・書家

 萩(山口県)藩士植木五郎右衛門(ごろううえもん)の次男として生まれ、杉彦之進の養子となる。号は聴雨(ちょうう)。藩学明倫館に学び、また吉田松陰からも教えを受けた。文久2年松平岩見守(いわみのかみ)に従い欧州に遊歴し、諸般の事業を調査した。明治維新前後には国事に奔走し重きをなした。県令その他の要職を経て東宮職御用掛(ごようがかり)皇太后大夫(だいふ)や枢密院(すうみついん)顧問官などを歴任した。能書家としても知られる。大正9年5月に没す。享年86。