漢詩紹介

吟者:中島 菖豊
2005年4月掲載

読み方

  •  児に示す  <陸游>
  • 死去すれば元知る 万事空しと
  • 但悲しむ 九州の 同じきを見ざるを
  • 王師北のかた 中原を定むるの日
  • 家祭忘るる無かれ 乃翁に告ぐるを
  •  じにしめす  <りくゆう>
  • しきょすればもとしる ばんじむなしと
  • ただかなしむ きゅうしゅうの おなじきをみざるを
  • おうしきたのかた ちゅうげんをさだむるのひ
  • かさいわするるなかれ だいおうにつぐるを

詩の意味

 死んでしまえば万事が空しくなってしまうと、かねてから知りぬいてはいる。それでも天下が統一されるのをこの目で見ずに終わるのが、悲しくてならない。

 やがて我が宋国帝王の軍隊が北に進んで、中原(ちゅうげん)の地を平定した日には、我が家の先祖の祀(まつ)りをし、この父の霊に報告するのを忘れてはならぬぞ。

語句の意味

  • 九州同
    中国全土の統一 「九州」は古代中国全土を九つの区域に分けていた伝説による呼び名
  • 王 師
    朝廷の軍隊
  • 中 原
    中国中央部の黄河流域の一帯
  • 乃 翁
    汝の翁 おまえの父 ここでは陸游をさす 「乃」はなんじ

鑑賞

  愛国の至情に燃える作者辞世の詩

 宋が再び強国になることを叫び続けたにもかかわらず国勢が傾き、これからの運命が気にかかり、子供たちに与えた遺言詩である。表面的な詩意は「九州」「王師」「中原」「乃翁」の熟語さえわかればほぼ理解できるが、やはりこの詩も、当時の歴史を知らなければ真相に近づけない。1200年代と言えば宋が北方からの異民族「金」によって追われ、止む無く南方の臨安に(今の杭州)に臨時政府を置いた屈辱の時代である。しかも南宋では暗君が多数続き、奸臣(かんしん)が政権を握るなどしたため、加えてモンゴル民族の南下もあって、国勢は傾き始めていた。愛国の情熱き作者はすでに80歳に近かったが、政府の弱腰に切歯扼腕(せっしやくわん)していたので、死んでも死にきれない思いで見つめていた。このままでは漢民族の宋が中国大陸を健全な形で復権する日は、夢で見るしかないのである。仮にその日が来たら、すでにあの世にいる自分に喜びの報告をしてほしいと、子供らに託すのである。淡々とした歌い方であるが、85歳の切望感を味わいたい。

参考

  宋国の滅亡

 宋国が滅びるのを嘆く詩は、本会では謝枋得(しゃほうとく)の「妻子良友に別る」や文天祥の「零丁洋を過ぐ」が代表であるが、これらは陸游から70年後のことである。南宋はモンゴル民族の「元」によって1279年に滅ぼされた。

詩の形

 仄起こり七言絶句の形であって、上平声一東(とう)韻の空、同、翁の字が使われている。

結句 転句 承句 起句

作者

陸 游  1124~1209

  南宋前期の政治家・詩人

 号は放翁。浙江省紹興の人。20歳で結婚したが間もなく離婚。29歳のとき科挙に首席で合格したが、ある人の恨みを買って殿試(最終選考試験)で落第した。5年後ようやく官職に就いた。各地の任地を回り、65歳以降はほぼ故郷で作詞にふけった。その間詩人として名をあげ南宋四大家の随一とされる。32歳から85歳の死に至るまで50年間の詩作「剣南詩稿」85巻を遺した。特に晩年は多作で、総数1万首近くある。愛国の詩人として北方平定を願っていたが果たされなかった。享年85。