漢詩紹介

吟者:鈴木永山
2010年7月掲載

読み方

  •  秦淮に泊す  <杜 牧>
  • 煙は寒水を籠め 月は沙を籠む
  • 夜秦淮に泊して 酒家に近し
  • 商女は知らず 亡国の恨み
  • 江を隔てて猶唱う 後庭花
  •   しんわいにはくす  <とぼく>
  • けむりはかんすいをこめ つきはいさごをこむ
  • よるしんわいにはくして しゅかにちかし
  • しょうじょはしらず ぼうこくのうらみ
  • こうをへだててなおとのオ こうていか

詩の意味

 夜霧が寒々とした水面に立ちこめ、月光は川辺の砂を包み込むように照らしている。今宵は六朝以来の名高い繁華の地である秦淮河に舟を留めて一泊したが、そこは酒楼の近くにあった。

 ふと聞けば、歌姫たちはかつての陳王朝の亡国の悲哀歌であるとは知らぬであろうに、江を隔てた酒楼あたりでその「玉樹後庭花」が歌われているではないか。

語句の意味

  • 秦 淮
    南京の近くを流れる川の名 南京は六朝時代の首都 秦代に開かれた運河がある
    両岸には酒楼が多く今に至るまで風流繫華の地
  • 商 女
    酒楼の歌姫
  • 亡国恨
    南朝最後の陳王朝滅亡の悲哀
  • 後庭花
    玉樹後庭花という曲

鑑賞

   滅びし南朝陳王朝への回顧

 滅んだ陳王朝への哀感が歌われている。「籠」がいい。禁じられている一字二度読みをあえて用いたには、よほど深い思いがあったのであろうか。何かほんのりと全体を包む感じがあるので、この句によって、後半のため息ムードが作りなされているのである。この古都が背負う二面性―慣習と亡国と―を、歌姫たちが不吉な因縁をもつ「後庭花」の歌を唱うという情景に集約させている。後半2句は、多くの注釈書では、陳王朝滅亡の感慨だけでなく、当時の唐王朝の権力者たちへの政治的風刺が込められている、とある。詩人は今宵、秦淮河に画舫(がぼう)を浮かべて、一夜を過ごした。向こう岸から管弦に合わせて歌声が聞こえてくる。聞くともなしに聞こえてくるのは、かの陳の後主の「玉樹後庭花」ではないか。束の間の歓楽に酔いしれ、国を滅ぼした陳の後主、その亡国の恨みのこもる「後庭歌」を思いがけずも昔の都の地で、晩秋の夜に聞いている。なんともいえない甘美な哀愁の詩である。事実、杜牧の死後50年ほどで唐帝国は滅び、分裂時代に入る。南朝陳王朝の二の舞にならなければよいがという思いがよぎったのかもしれない。

 一方歌姫たちの歌も素晴らしい。室内から飛び出し杜牧の舟にまで明瞭に聞こえてきたのは並々ならぬ美声であったのだろうと想像される。

 それとは別に、ここにも中国の悠久さを感じる。六朝末から杜牧の晩唐まで約250年の隔たりがある。日本でいえば江戸時代半ばまで遡(さかのぼ)らなければいけない。そのころの歌が巷間(こうかん)で歌われるなど、日本では想像もつかないからである。

参考

   「玉樹後庭花」の歌詞

 陳の後主(最後の皇帝)叔宝(しゅくほう)が作曲した。彼は詩歌音曲の才に恵まれていたが、かえって仇となり、日夜酒色にふけり政治を省みず隋に滅ぼされたとされる。歌詞は次のとおり。

 「麗宇(れいう)芳林高閣に対す 新粧の艶質本傾城(もとけいせい) 戸に映じ嬌を凝(こら)し乍(しばら)く進まず 帷(とばり)を出で態を含みて笑って相迎う 妖姫の臉(かお)は花の露を含むに似たり 玉樹流光後庭を照らす」

 要するに、大層美しい女性たちがこの後庭(宮殿の奥むき)に大勢いて、妙艶な姿を見せてくれているほどの意味である。

詩の形

 平起こり七言絶句の形であって、下平声六麻(ま)韻の沙、家、花の字が使われている。

結句 転句 承句 起句

作者

杜 牧 803~852

   晩唐の政治家・詩人

 字は牧之(ぼくし)、号は樊川(はんせん)。京兆(けいちょう=今の西安)の名門の出身。23歳の時「阿房宮の賦(ふ)」を作りその天才ぶりが世に知れ渡った。26歳で進士となり、江蘇省の揚州に赴任した時代には名作を多く残している。杜牧は美男子で歌舞を好み青楼に浮名(うきな)を流したこともあるが、その人柄は剛直で、大胆に天下国家を論じたりもした。33歳の時、中央政府の役人になるが、弟が眼病を患っていたので、弟思いの杜牧は自ら報酬の高い地方官を願い出て面倒を見た話はまた別の一面を語っている。中書舎人(ちゅうしょしゃじん)となって没す。享年50。「樊川文集」20巻、「樊川詩集」7巻がある。