漢詩紹介
読み方
- 春を探る <戴 益>
- 尽日春を尋ねて 春を見ず
- 杖藜踏み破る 幾重の雲
- 帰り来りて試みに 梅梢を把って見れば
- 春は枝頭に在りて 已に十分
- はるをさぐる <たいえき>
- じんじつはるをたずねて はるをみず
- じょうれいふみやぶる いくちょうのくも
- かえりきたりてこころみに ばいしょうをとってみれば
- はるはしとうにありて すでにじゅうぶん
詩の意味
一日中春を尋ね歩いたが、春らしい風景を見ることができなかった。杖をつき山野の幾重にも重なる雲を踏み分けたが徒労に終わった。
家に帰って何気なく梅の枝を把ってみると、いつの間にか蕾(つぼみ)もふくらみ、春の訪れを見せている。
語句の意味
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- 尽 日
- 一日中
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- 枝 藜
- あかざの杖をつく 「杖藜」は杖の詩語 「藜」は畑、荒れ地に自生する一年草 茎は杖に適す
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- 帰 来
- 「来」は助辞であまり意味を持たない 家に帰り
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- 梅 梢
- 梅の枝
鑑賞
この詩が禅の悟りの境地を示すとは
中国でも日本でも春を待ち望む思いは同じで、この種の歌や詩は無数にある。本会では新島襄の「寒梅」が浮かぶ。特に結句がいい。深い山を歩いて疲れたところで家に帰り、ふと庭先の梅に蕾を見つけて「何だ何も遠くまで行かなくても春は我が家に来ているではないか」と顔をほころばせ、思わず声を発したような作者が想像できる。
数種の解説書に、この詩は仏教、とりわけ禅宗の教えに通ずるとある。すなわち、人々は道を求めるのにいろいろ高邁な所を探る傾向にあるが、じつは日常卑近な場面に悟りの道は存在しているという教えである。禅宗の教本にその意味でこの詩が採られているとの解説もある。しかし一般の人としては素直に春の到来の喜びを感じる詩として胸に収めたらいかがであろう。
備考
この詩の詩句の異同について
承句が「芒鞵(ぼうあい)踏ミ遍(あまね)シ隴頭(ろうとう)ノ雲」
(草鞋掛けで梅花の林を歩き回ったのであるが)
転句が「帰来適(きらいたまたま)過グ梅花ノ下(もと)」
(疲れ果てて帰るや、ふと梅花の下を通り過ぎると)
との本もある。こちらの詩ではわざわざ高山まで出かけていないが、さて、どちらが結句は生きるであろうか。
漢詩の小知識
「とる」と読む漢字あれこれ 「取る」以外。
「把る」枝を_ 文意を_ 手に_て吟味する
「採る」満点を_ 人材を_ 昆虫を_
「撮る」写真を_
「捕る」鼠を_ 生け_にする
「執る」筆を_ 事務を_ 指揮を_
「摂る」栄養を_ 法外な仲介料を_
「盗る」他人の物を_
「操る」船の舵を_
詩の形
仄起こり七言絶句の形であって、上平声十二文(ぶん)韻の雲、分の字と、十一真(しん)韻の春の字が通韻して使われている。
結句 | 転句 | 承句 | 起句 |
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作者
戴 益 生没年不詳
宋時代(960~1279)の人というだけで生卒年その他不詳。この一首によって名が伝えられている。