漢詩紹介

読み方

  •  貧交行 <杜甫>
  • 手を翻せば雲と作り 手を覆せば雨
  • 紛紛たる軽薄 何ぞ数うるを須いん
  • 君見ずや管鮑 貧時の交わり
  • 此の道今人棄てて 土の如し
  •  ひんこうこう <とほ>
  • てをひるがえせばくもとなり てをくつがえせばあめ
  • ふんぷんたるけいはく なんぞかぞうるをもちいん
  • きみみずやかんぽう ひんじのまじわり
  • このみちこんじんすてて つちのごとし

詩の意味

 手のひらを上に向ければ雲となり、下に向ければ雨となるように、くるくると変わる人情の軽薄さは問題にするまでもない。
 よく見たまえ、あの管仲(かんちゅう)と鮑叔(ほうしゅく)の貧しい時の交わりを。あれが本当の友人というもので、今の人はこの交わりを土くれのように捨ててしまっている。

語句の意味

  • 翻 手
    手のひらを返して上に向ける
  • 軽 薄
    人情の薄い
  • 何須数
    数える必要もない 問題にしない 「須」は……する必要がある
  • 管 鮑
    春秋時代に斉の桓公に仕えた名相管仲とその親友鮑叔

鑑賞

  人情の軽薄さへの怒りの向こうにあるものは

 杜甫は仕官のために長安に上ったが科挙の試験に及第せず、仕官もできず、求職のため貴人の家を訪ねた時、門前払い遭い、この詩を作る。752年、41歳の作である。
 さて憤りの先に在るものは何だろう。科挙を落第しても貴人を通じて己の才能を売り込めば仕官の道もあったので、杜甫は自分の政治的才能を記し、文才を詩に託して高官の家々を訪れたのである。
 この詩を杜甫周囲の人への不満と考える説もあるが、それでは杜甫が浮かばれない。750年代といえば玄宗が楊貴妃に心を奪われ、貴妃の親族の楊国忠(ようこくちゅう)を宰相に抜擢したころと重なる。国忠は不良少年といわれながら育ち、政治的才能は未知数であった。一方で国政を狙う安禄山の不気味な動きを知ってか知らぬか、玄宗は楊貴妃の為に造営した華清池(温泉地)で酒食に溺れている。この情報は杜甫の耳にも届いていた。「この道今人捨てて」の「今人」は玄宗を含めて政府高官を指しているのではないか。「玄宗皇帝さまは開元の治のころは万民の生活と幸せのために腐心下さいました。それなのにいつどこで手のひらを返すような不人情の人に変わられたのでしょうか」と叫んでいる。政治家への深い失望感を表す詩ととらえることもできるのではないか。

備考

  「管鮑の交わり」について「史記」から引用

 「管仲曰く『吾始め困しめる時、嘗(かつ)て鮑叔と賈(こ)し、財利を分けて多く自ら与ふ。鮑叔我を以って貪(どん)と為さず。我の貧(ひん)なるを知ればなり。吾嘗て鮑叔の為に事を謀りて更に窮困す。鮑叔我を以って愚と為さず。時に利と不利有るを知ればなり。吾嘗て三たび仕え三たび君に逐(お)はる。鮑叔我を以って不肖と為さず。我の時に遭(あ)わざるを知ればなり。吾嘗て三たび戦い三たび走る。鮑叔我を以って怯(きょう)と為さず。我に老母有るを知ればなり。公子糾(きゅう)敗(やぶ)るる時、召忽(しょうこつ)之に死し、吾幽囚(ゆうしゅう)せられ辱(はずかし)めを受く。鮑叔我を以って恥(はじ)無しと為さず。我の小節を羞(は)ぢずして、功名の天下に顕(あら)われざるを恥づるを知ればなり。我を生む者は父母、我を知るものは鮑子なり』」とあって管仲と鮑叔の交際は水魚の交わりのように親しかったというのが定説である。

詩の形

 仄起こり古詩の形であって、上声七麌(ぐ)韻の雨、数、土の字が使われている。

結句 転句 承句 起句

作者

杜甫  712~770

  盛唐の役人・詩人

 李白と並び称され、中国詩史上偉大な詩人である。字は子美、号は少陵(しょうりょう)。洛陽に近い鞏県(きょうけん)に生まれた。代々地方官を務めた家系で田舎の豪族であった。7歳から詩を作る。科挙の試験に及第しなかったためよい役職に就けず各地を放浪し、生活は窮乏を極めた。安禄山の乱に捕らえられるがのち脱出。湖南省潭州(たんしゅう)から岳州に向かう船の中で没す。享年59。律詩に巧みで名作が多い。その誠実な人柄から「詩聖」と称せられる。