漢詩紹介

読み方

  •  烏江亭に題す <杜 牧>
  • 勝敗は兵家も 事 期せず
  • 羞を包み恥を忍ぶは 是れ男児
  • 江東の子弟 才俊多し
  • 巻土重来 未だ知る可からず
  •  うこうていにだいす <とぼく>
  • しょうはいはへいかも こと きせず
  • はじをつつみはじをしのぶは これだんじ
  • こうとうのしてい さいしゅんおおし
  • けんどちょうらい いまだしるべからず

詩の意味

 勝敗は戦略家でさえも予測できるものでない。たとえ敗れても恥辱(ちじょく)に耐え再起を図ってこそ真の男子といえる。
 項羽の本拠地である江東の若者たちには優れた人物が多いので、土煙を巻き起こすような勢いで今一度出直していたなら、どうなっていたかわからない。

語句の意味

  • 烏江亭 
    安徽省和県(あんきしょうわけん)の東北にある宿場「亭」は駅亭宿場 項羽最期の地
  • 兵 家 
    軍人戦略家
  • 不 期 
    予測できない
  • 江 東 
    江南に同じ 今の江蘇省南部から浙江省北部にわたる一帯
  • 子 弟 
    若者
  • 巻土重来
    負けた者が土を巻上げるような勢いで領土を占領し再び盛り返して攻めてくる

鑑賞

  項羽びいきは民衆の心

 この詩は秦末(紀元前200年ごろ)の出来事で、秦の滅亡後、沛公(はいこう)と天下を争った項羽が烏江亭で自決したことを、現地を訪れた作者が偲んで作った懐古詩である。
 すこし歴史に触れておく。前209年、項羽と沛公が挙兵した。同206年に有名な鴻門(こうもん)の会で沛公は身の危険を感じて去る。同年項羽は咸陽を破壊し一旦覇王と自号するが、軍力を盛り返した沛公は項羽を垓下(がいか)に破る。覚悟した項羽は烏江で自決した。同202年沛公が漢の帝王となった。
 杜牧は項羽より約1000年後の人であるが、項羽びいきの史観の持ち主である。もし烏江で少しだけ正義感を捨て、恥辱に耐えて、短気を起こしていなかったら歴史は変わっていたであろうと項羽の力量を惜しんでいる。実際一旦項羽は天下を掌握したのであるから英雄なのであるが、虞美人との離別を含む末路があまりにも哀れなので、中国の民衆は項羽の肩を持つ人々が多かった。杜牧もその一人である。

備考

  「史記」より項羽の最期を現代文で略述する

 項羽は烏江を渡ろうとした。宿場の長が項羽に「あなたの故国である江東の地は小さいながら人口も数十万人はいるし、王となるには十分です。敵が襲来しても船は一艘しかありませんので安心です」と渡ることを促した。項羽は「ありがたい申し出だが、我が敗戦は運命であるし、郷里の若者の多くを犠牲にしてしまった今、親たちに合わす顔がない。だから申し出は拒みたい」と笑って答えた。まもなく追っ手の沛公軍が襲って来た。項羽は傷つきながらも数百人を独りで刺殺した。しかし力尽きてその地で自らの首をはねた。

参考

項羽に味方しない史観もある。たとえば
 宋の大政治家で文章家でもある王安石の詩には
   「江東の子弟今在りと雖も
    敢えて君王の為に捲土し来たらんや」とあって
もうこれ以上項羽に従う者はいなかったろうと批判的である。

詩の形

 仄起こり七言絶句の形であって、上平声四支(し)韻の期、児、知が使われている。

結句 転句 承句 起句

作者

杜牧  803~853

  晩唐の政治家・詩人

 字は牧之、号は樊川。京兆(今の西安)の名門の出身。23歳の時「阿房宮の賦」を作り、その天才ぶりが世に知れ渡った。26歳で進士となり、江蘇省の揚州に赴任した時代には名作を多く残している。杜牧は美男子で歌舞を好み青楼に浮名を流したこともあるが、その人柄は剛直で、大胆に天下国家を論じたりもした。33歳の時、中央政府の役人になるが、弟が眼病を患っていたので、弟思いの杜牧は自ら報酬の高い地方官を願い出て面倒を見た話は、また別の一面を語っている。中書舎人となって没す。享年50。「樊川文集」20巻、「樊川詩集」7巻がある。