漢詩紹介

CD①収録 吟者:熊谷峰龍
2014年7月掲載

読み方

  •  偶 感  <西郷 南洲>
  • 幾たびか辛酸を歴て 志始めて堅し
  • 丈夫は玉砕するも 甎全を愧ず
  • 吾が家の遺法 人知るや否や
  • 児孫の為に 美田を買わず
  •  ぐうかん  <さいごう なんしゅう>
  • いくたびかしんさんをへて こころざしはじめてかたし
  • じょうふはぎょくさいするも せんぜんをはず
  • わがやのいほう ひとしるやいなや
  • じそんのために びでんをかわず

詩の意味

 人間は、辛(つら)く苦しいことを何度も経験して初めて志が堅固になるものである。立派な男というものは、たとえ玉となって砕け散るようなことになっても、瓦となって生きながらえるのを恥とするものである。

 我が家には先祖から伝わった子孫の守るべき家訓があるが、世間の人は知っているであろうか。それは、子孫のために田地など財産を買い残すことはしないということである。

語句の意味

  • 辛 酸
    辛く苦しいこと
  • 丈 夫
    立派な男子
  • 玉 砕
    玉となって砕け散る 立派な死に方をする
  • 甎 全
    瓦全(がぜん)と同じ 瓦のようにつまらないものになって生きながらえる
  • 遺 法
    子孫に残す家訓
  • 美 田
    良田 ここでは立派な財産

鑑賞

  西郷家個人の教訓ではない名言

 明治2年、正三位を下賜(かし)されるが、それを「未だ維新は完成しておらず、禄を私物化すべきではない」と西郷は固辞し、自己の思想信条を述べて、今後の心の緩みを戒めて作られた。西郷の目から見れば、維新の功労者は高報酬を得、急に豪奢(ごうしゃ)な生活をし、政治に手抜きをし始めた。また朝廷の高官も安逸(あんいつ)をむさぼり遊蕩(ゆうとう)にふけり、事を誤るものが多くなった。今こそ命を賭(と)して国の行く末を案じ続けなければならない時に、ぬるま湯に浸ることを決め込んでいる政府高官の精神にカツを入れようとしている。そのためには後に続くものに財産を与えては、汗水流して働かなくなると嘆いているのである。

 裏を返せば西郷の、これからも国のために挺身(ていしん)するという決意の披瀝(ひれき)でもある。独立自営千辛万苦に耐えさせるというのが、西郷家に残し継がれてきた家訓であろうが、決してこれを、一西郷家の教訓だけだと心得てはならない。

参考

 安政5年(1858) 京都の友人、僧月照とともに鹿児島湾に入水。自分のみ助かった。

 同  年(1858) 大島に流罪(るざい)。3年後赦免。

 文久2年(1862) 徳之島、沖永良部島(おきのえらぶじま)に流罪。後赦免。

 慶応4年(1868) 江戸城無血開城で腐心。

 明治元年(1868) 戊辰戦争で官軍として奮戦。

 

 征韓論の挫折で帰郷、明治10年西南戦争で敗北と自決など、千辛万苦の人生は続く。

漢詩の小知識

  一・二点と上・中・下点が同時にある漢文の読み方

 一・二点を優先的に読み、その後で上・中・下点を読む。

  

 

  

備考

 転句の「吾家遺法」は「一家遺事」もある

詩の形

 仄起こり七言絶句の形であって、下平声一先(せん)韻の堅、全、田の字が使われている。

結句 転句 承句 起句

作者

西郷南洲  1827~1877

  江戸末期から明治初期の政治家

 薩摩藩士。文政10年に鹿児島市下加治屋町に生まれる。名は吉之助(きちのすけ)、通称は隆盛(たかもり)、南洲は号である。安政元年(1854)薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)の側近に抜擢(ばってき)された。水戸藩の学者藤田東湖に師事した。維新後政府高官となり征韓論を唱えたが容(い)れられず退官し故郷に戻った。明治7年私学校党を結成し、明治10年いわゆる西南戦争で新政府に対し挙兵したが、敗れて城山で自決した。享年51。