漢詩紹介

吟者:松野 春秀
2009年9月掲載

読み方

  •  壇の浦に泊す  <木下 犀潭>
  • 篷窓月落ちて 眠りを成さず
  • 壇の浦の春風 五夜の船
  • 漁笛一声 恨みを吹いて去り
  • 養和陵下 水煙の如し
  •  だんのうらにはくす  <きのした さいたん>
  • ほうそうつきおちて ねむりをなさず
  • だんのうらのしゅんぷう ごやのふね
  • ぎょてきいっせい うらみをふいてさり
  • ようわりょうか みずけむりのごとし

詩の意味

 船の窓から外を見ると、月もはや落ちたのに、なかなか眠ることができない。今宵、壇の浦に船泊りして、まだ午前4時ごろなのに、生暖かい春風が吹き渡る。

 折から、漁船の吹き鳴らす笛の音が、入水(じゅすい)した安徳天皇をはじめ平家一門の恨みを込めるかのように一声高く響いた。見渡せば養和陵下あたりの海面は水煙が立ち込めて、そぞろ哀愁に満ちていた。

語句の意味

  • 壇 浦
    下関市の東端 平家滅亡の地
  • 篷 窓
    船の窓 「篷」はとま
  • 五 夜
    午前4時ごろ 5更に同じ
  • 漁 笛
    漁師の吹く笛
  • 吹 恨
    平家滅亡の恨みを吹く
  • 養和陵
    安徳天皇の御陵

鑑賞

  平家の恨みを含む漁笛一声

 この詩は、平家滅亡の約600年後、木下犀潭が江戸から帰藩の途中、壇ノ浦で船泊した時の作と思われる。

 壇ノ浦は平家滅亡の地として名高い古戦場である。作者は目の前にある海を見て、その海上で遠い昔展開された激しい源平の合戦へと読者を誘ってくれる。「祇園精舎の鐘の声」に始まる平家物語に詠われている如く、あれほど栄えた平家一門も海の藻屑と消えていったのである。中でも特に哀れをとどめたのは御年8歳で入水された幼帝安徳天皇であろう。作者はその痛ましい天皇に涙せずにはいられなかった。そんな思いに沈む作者であったが、この詩には作為がなく淡々とした叙景に終始し、読者が平家滅亡の顚末(てんまつ)や哀れさを承知のこととして、あえて具体的な事象を一切述べないところが、却って味わい深い。

参考

  ①「平家物語」巻11先帝身投げの一節

 「二位の尼(安徳天皇の祖母)はこの有様をご覧になって神璽(しんじ)を脇に抱え、宝剣を腰にさし、天皇をお抱き申し上げて『わが身は女であっても敵の手にかからないつもりだ』と言って、船端へ出られた。天皇は8歳になられていたが、驚きあきれたご様子で『尼ぜ、私をどちらへ連れて行こうとするのだ』と言うと、二位の尼は『極楽浄土と言って結構な所があるのでそこへお連れ申し上げます』と泣きながら申し上げたので、幼帝は小さくかわいらしい御手を合わせ、まず東を伏し拝み、伊勢大神宮にお暇を申され、西に向かってご念仏を唱えられたので、二位殿はすぐお抱きになって、『海の下にも都がございますよ』とお慰め申し上げて、千尋(ちひろ)もある深い深い海底へお入りになった。」

  ②清盛の孫が安徳天皇

清盛の孫が安徳天皇

詩の形

 平起こり七言絶句の形であって、下平声一先(せん)韻の眠、船、煙の字が使われている。

結句 転句 承句 起句

作者

木下犀潭 1805~1867

  江戸末期の学者・教育者

 肥後(熊本県)菊池郡の人。名を業広(なりひろ)、字を子勤(しきん)と言い、犀潭と号した。農家の出身。22歳で学力優等によって士分にとりたてられ帯刀を許された。江戸に出て佐藤一斉に学んだ。昌平黌(しょうへいこう)の教授に招かれたが、藩侯の恩義を優先し熊本にとどまる。細川候に仕え熊本藩の藩校「時習館」の訓導に進んだ。門人に古荘(ふるしょう)嘉門、竹添井井(せいせい)など多くの逸材を出した。慶応3年没す。享年63。