漢詩紹介

読み方

  •  決 別  <梅田 雲浜>
  • 妻は病牀に臥し 児は飢に叫ぶ
  • 挺身直ちに 戎夷に当たらんと欲す
  • 今朝の死別と 生別と
  • 唯 皇天后土の 知る有り
  •  けつべつ  <うめだ うんぴん>
  • つまはびょうしょうにふし じはうえにさけぶ
  • ていしんただちに じゅういにあたらんとほっす
  • こんちょうのしべつと せいべつと
  • ただ こうてんこうどの しるあり

詩の意味

 妻は病に伏し、わが子は飢えて泣いているが、自分は一身を投げ出して、外敵を打ち払おうと固く心に決めている。

 今朝の別れは、死別となるか、生別となるか分からないが、自分の誠を尽くす心は、天地の神々がご覧のところである。それで十分ではないか。

語句の意味

  • 挺 身
    自分の身を投げ出して物事をする
  • 戎 夷
    西の方のえびすを戎 東の方を夷という ここでは西洋人
  • 皇天后土
    天の神と地の神

鑑賞

  家族よりも大切な誠の心

 雲浜40歳のころにはオランダ、ロシア、イギリス、アメリカの艦船が日本の港に出没しては人々に脅威(きょうい)を与えていた。嘉永6年(1853)にアメリカ艦隊4隻がペリーの指揮で浦賀に上陸し、通商を求めてきた。雲浜は時事を黙視することができず、江戸で吉田松陰らと対策を議するため京都を出発するにあたり、家族との別れを叙したものである。妻子よりも大切な国家への誠に身を捧げようとする志士の気概が十分表れている。生きるか死ぬか、それは神のみぞ知るの言葉には、尊王攘夷派志士の面目が熱く伝わる。しかし、この後6年ほどして獄舎につながれ、解放されたものの病死した波乱の生涯を思えば、やりきれないものを感じる。

 同趣の詩に謝枋得の「妻子良友に別る」があり、その後半四句に「義は高くして便(すなわ)ち覚ゆ生の捨つるに堪えたるを 礼は重くして方(まさ)に知る死の甚だ軽きを 南八男児終に屈せず 皇天上帝眼分明」とある。一方は宋朝に、一方は日本朝廷に命を捧げ、その心は神のみがご存じだと締めくくる。威武の人というべきだろう。雲浜には「君が世を思う心の一筋に我が身ありとは思はざりけり」の歌もある。妻信子は肺病で伏している(翌年死す)。2児あり、長女竹子は7歳、長男繁太郎は病弱で翌々年死す。

参考

 当時の時事川柳・狂歌

○ さわがしてやったとペロリ(ペリー)舌を出し

○ 陣羽織異国から来て洗いはり

       ほどいてみれば浦が(浦賀・裏が)大変

○ 泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)

       たった四杯(4隻)で夜も眠れず  上喜撰=銘茶

詩の形

 仄起こり七言絶句の形であって、上平声四支(し)韻の飢、夷、知の字が使われている。

結句 転句 承句 起句

作者

梅田雲浜  1815~1859

  明治末期の志士・教育者

 名は定明(さだあき)、通称源次郎、雲浜は号。また湖南、東塢(とうう)とも号した。若狭(福井県)小浜藩士。16歳で江戸に出て藩儒山口菅山の望楠塾に学ぶ。天保10年、大津の上原立斎のもとで学問に励み、私塾を設け子弟の教育に当たる。横井小楠、斎藤監物、頼鴨厓ら全国の文人志士と交わった。江戸に出て尊王攘夷家として活動したが、安政の大獄で逮捕され、翌6年江戸の牢内で病のため没す。享年45。