漢詩紹介

京都東山 徳富蘇峰

読み方

  •  京都東山 <徳富 蘇峰>
  • 三十六峰 雲漠漠
  • 洛中洛外 雨紛紛
  • 波簦短褐 来って涙を揮う
  • 秋は冷ややかなり 殉難 烈士の墳
  •  きょうとひがしやま <とくとみ そほう>
  • さんじゅうろっぽう くもばくばく
  • らくちゅうらくがい あめふんぷん
  • はとうたんかつ きたってなみだをふるう
  • あきはひややかなり じゅんなん れっしのはか

詩の意味

 京都東山三十六峰は一面の雲に掩(おお)われて寂しく、京都の町中も郊外も雨が降りしきっている。
 この雨の中を破れ笠をかぶり裾(すそ)の短い着物を着て、国難に殉じた志士達の墓前に涙を流してぬかずけば、秋気はことのほか冷え冷えと肌に感じられるのである。

語句の意味

  • 三十六峰
    京都東山の峰々 三十六は多いと同意
  • 洛中洛外
    「洛」は都 京都の市中と郊外
  • 波簦短褐
    「簦」は笠「褐」は裾丈(すそたけ)の短い粗末な着物
  • 殉難烈士
    国難に殉じた志士

鑑賞

  青年時代の情熱がうたわせた弔いの詩

 この詩は作者が明治17年、22歳の時に、京都東山の霊山(りょうぜん)護国神社にある坂本龍馬、中岡慎太郎らの墓に参拝した時のものである。この2人はともに土佐藩出身で、倒幕運動の大原動力となって薩摩長州連合の成立のため、京都を中心に精力的に動き回り、同連合を成立させたが、大政奉還の日を見ることなく、京都市中「近江屋」で暗殺された。作者はその死を弔ったのである。作者はキリスト教思想の時代が長かったが、戦前は皇国史観に移り、戦後は平民主義思想へと変化してゆく。思想的根拠は別にして、ただ維新回天劇の演出者としての志士を尊敬していたのだろう。青年時代の情熱が作らせた詩である。
 なお「波簦短褐」は破れ笠に短い着物つまり粗末な身なりを表す語であるが、実際に破れ笠や短い着物を身につけていたのではない。中国の用例でも自分を謙遜して使う言葉であるから、作者は33歳の龍馬と29歳の慎太郎の偉業の前に自分をごく控え目に表現したものととりたい。

参考

  平民主義とは

 明治政府の表面的な欧化政策を批判し、実業に従事する民衆に基盤を置く近代化を唱えた思想。(日本史小辞典 山川出版社)
 地位、身分の差別を立てず平等に取り扱い、万事を格式張らずにする主義。(広辞苑)

詩の形

 仄起こり七言絶句の形であって、上平声十二文(ぶん)韻の紛、墳の字が使われている。起句は踏み落とし。

結句 転句 承句 起句

作者

徳富蘇峰  1863~1957

  明治からの昭和の評論家・歴史家・漢詩人

 名は正敬(まさたか)、通称猪一郎(いいちろう)、蘇峰は号。熊本県水俣(みなまた)の出身。家は代々大庄屋兼代官を勤めた。熊本洋学校に学び、キリスト教を知った。のち同志社に移り新島襄から洗礼を受けた。その後上京し、明治20年民友社を興し、雑誌「国民の友」を発刊、さらに「国民新聞」を発刊して、平民主議を喧伝(けんでん)し、言論人として確立した。生涯「近世日本国民史」百巻を完成させることに専念した。昭和18年文化勲章を受章。昭和32年没す。享年94。