漢詩紹介

読み方

  •  親を夢む <細井 平洲>
  • 芳草萋萋として 日日新たなり
  • 人を動かして帰思 春に勝えず
  • 郷関此を去る 三千里
  • 昨夢高堂 老親に謁す
  •  おやをゆめむ <ほそい へいしゅう>
  • ほうそうせいせいとして にちにちあらたなり
  • ひとをうごかしてきし はるにたえず
  • きょうかんここをさる さんぜんり
  • さくむこうどう ろうしんにえっす

詩の意味

 芳(かんば)しい草が勢いよく伸び一日一日成長してゆく様子は、人の心を動かし、家に帰りたい気持ちが起こって、春の物思いに耐えられず、居ても立ってもいられない。
 郷里はここから遥かに遠く、帰ることもできない。昨夜夢で実家の年老いた両親にお目にかかって元気な姿を見ることができ、嬉しいことだった。

語句の意味

  • 芳 草
    香のよい草
  • 萋 萋
    草の茂ったさま
  • 帰 思
    故郷に帰りたいと思う心
  • 不勝春
    春の物思いに耐えられない
  • 郷 関
    郷里
  • 高 堂
    立派な家 父母の住居を敬っていう

鑑賞

  両親のことは忘れたことはありません

 長崎留学中に故郷の両親を思い、夢でお目にかかった喜びを述べている。まだ20代前半の書生である。平洲の偉大さは学問をこよなく愛すること、親に孝養をつくすこと、友情に篤いこと、子弟を大事にすることなどがあげられる。孝養に関しては中江藤樹や伊藤仁斎に匹敵する人物と言われる。藤樹は滋賀に残した両親に孝を尽くすため愛媛の大洲藩から脱藩してまで帰郷し、両親のお側に仕えた。その話に比べれば平洲は遠くから夢見るだけで孝行心が薄いようにも感じられるが、そうではない。儒者として「論語」の「父母在ませば遠くは遊ばず」の教えを知らないはずはないから、長崎にいること自体、自尊心が傷つくほどの負い目であったろう。しかし広瀬淡窓の「親を思う」にも「官学三年業未だ成らず」とあり、平洲も同じ思いで、学が成った暁には国に帰ろうと必死に勉学に励んでいただろうから、学問と孝養の狭間で青年の心は揺れ動いていたのである。「両親のことは忘れたことはありません」の思いが十分伝わってくる。

参考

  読書好きの平洲の逸話

 16歳の時家業は兄に任せ京都に師を求めたが妥当な人が見つからず1年で帰郷した。上京の時父は平洲に50両の金を持たせたが、彼は食費や服装費を切り詰め余金40両をすべて書物に変え、2頭の馬に積んで帰った。父はその向学心を喜び、別に田宅を与えようとしたが平洲は固辞し「下さるなら200金のみ戴きたい」と請い、またすべて書物を購入し「これ我が師とするところ」と喜んだという。名古屋に出て生涯の師・中西淡淵と巡り会ったのはその後である。

詩の形

 仄起こり七言絶句の形であって、上平声十一真韻の新、春、親の字が使われている。

結句 転句 承句 起句

作者

細井平洲  1728~1801

  江戸中期の儒者・教育者

 尾張(愛知)知多郡平洲村(ひらしまむら)の出身。名は徳民、字は世馨(せいけい)、通称は甚三郎、平洲また如来(にょらい)山人と号す。はじめ中西淡淵に学び、のち長崎に出て華音(中国語)を習うこと3年、母の病により帰郷する。24歳で名古屋に塾を開く。まもなく江戸に出る。師淡淵の没後、叢桂社(そうけいしゃ)の門弟も引き取り塾頭となり名声一時に上がる。尾州藩侯の儒官となり、のち米沢藩主上杉鷹山の賓師(ひんし)ともなる。人となりは風流温雅にして度量広く小事に拘泥(こうでい)せず。享和元年江戸尾州藩邸において没す。享年74。