漢詩紹介

読み方

  •  江上の船 <嵯峨天皇>
  • 一道の長江 千里に通ず
  • 漫漫たる流水 行船を漾わす
  • 風帆遠く没す 虚無の裡
  • 疑うらくは是 仙査の
  •       天に上らんと欲するかと
  •  こうじょうのふね <さがてんのう>
  • いちどうのちょうこう せんりにつうず
  • まんまんたるりゅうすい こうせんをただよわす
  • ふうはんとおくぼっす きょむのうち
  • うたごオらくはこれ せんさの
  •         てんにのぼらんとほっするかと

詩の意味

 河陽離宮から眺めると淀川が遥か遠くまで続き、その広く豊かな水の流れに船が揺れ動きながら進んでいる。
 風を受けてはらんだ帆船が大空に消えてゆく光景は、仙人の乗った筏が天に上ってゆくのではないかと思われる。

語句の意味

  • 一 道
    光や川などのひとすじ
  • 長 江
    ここでは淀川
  • 行 船
    水上を行く船
  • 風 帆
    風を受けてはらんだ帆
  • 虚 無
    なにもないこと ここでは大空
  • 仙 査
    仙人の乗った筏

鑑賞

  淀川を長江に見立てた中国好みの風流詩

 当時の淀川と現在のそれとは、流れも規模も同じとは思えないが、歌意が遠大過ぎて小国日本の風景とは思えない。李白の絶句「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」の「孤帆の遠影碧空に尽き 唯見る長江の天際に流るるを」とイメージが重なる。さらにいかだに乗った仙人の話も中国の古典にある。前漢時代武帝の時(紀元前128年ころ)、帝が張騫(ちょうけん)という人物に、「いかだに乗って月に行き、織姫や牽牛にあって地上に戻って来い」と命じたところ、彼はそれに応じた、という逸話がある。張騫なる人物は実際に武帝の命により十数年かけて中央アジアを旅してシルクロードを開いた人でもある。あまりに偉大な業績のため、上のような逸話が生じたのだろう。これらのことからも、嵯峨天皇が中国の詩文に明るく、深い教養を備えていたことをうかがい知ることができる。
 主題はあくまでも河陽離宮から眺めた遠大な淀川の光景であるが、誇張過ぎるところも味わいの一つであろう。

参考

  河陽離宮とは

 嵯峨天皇によって開設された離宮で、現在の京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町にあったとされる。JR山崎駅のすぐ南、今の離宮八幡宮境内にあった。石碑のみがそれを印している。河陽の「陽」は河の場合は北を意味する。山の場合は南。

詩の形

 仄起こり七言絶句の形であって、下平声一先(せん)韻の船、天の字が使われている。起句は踏み落としになっている。なお起句が二六同になっていないので拗体である。

結句 転句 承句 起句

作者

嵯峨天皇 786~842

  平安初期の第52代天皇で漢詩人・書家

 御名は神野。50代桓武(かんむ)天皇の第二皇子として降誕。幼時より聡明で読書を好み、博(ひろ)く経史(けいし)に通じ、詩文に長ぜられ、書芸にも精(くわ)しく、僧空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆と称された。また仏道にも帰依、東寺を空海に賜いて真言宗の根本道場とさせた。文化の興隆に努めるとともに、諸式・諸官をも設けた。これによって平安朝の制度文物(法律・学問・芸術・宗教)は備わった。24歳で即位して在位14年間、皇位を淳和(じゅんな)天皇に譲り、承和9年7月15日、57歳で嵯峨院(今の大覚寺)で崩御された。御陵は嵯峨山上陵(京都市右京区)。漢詩文集「凌雲(りょううん)集」「文華秀麗集」の編纂(へんさん)者。