漢詩紹介

読み方

  •  母を奉じて嵐山に遊ぶ <頼 山陽>
  • 嵐山に到らざること 已に五年
  • 万株の花木 倍 鮮妍
  • 最も忻ぶ阿母と 衾枕を同にし
  • 連夜香雲 暖かき処に眠る
  •  ははをほうじてらんざんにあそぶ <らい さんよう>
  • らんざんにいたらざること すでにごねん
  • ばんしゅのかぼく ますます せんけん
  • もっともよろこぶははと まくらをともにし
  • れんやこううん あたたかきところにねむる

詩の意味

 嵐山を訪れなくなって、もう5年が過ぎた。久しぶりに来てみると、多くの桜の木が花をつけて、以前にも増して鮮やかで美しい。

 しかし、何よりも嬉しいことは、母と枕を並べて、毎夜、芳しく咲き乱れる桜に包まれて、暖かい場所で眠ることができることである。

語句の意味

  • 花 木
    桜の木
  • 鮮 妍
    鮮やかで美しい 「妍」はもともと磨かれた美しい女性をさす
  • 阿 母
    母を親しんで呼ぶ言葉 2字で「はは」と読む
  • 衾 枕
    掛け布団と枕 夜具 2字で「まくら」と読む
  • 香 雲
    咲き乱れる桜 慣用詩語

鑑賞

  素行不良の青年が晩年に尽くす最高の孝養

 文政2年(作者39歳)3月、65歳を過ぎた母を伴って嵐山の桜見物に訪れ、夕刻、近くの三軒屋に宿をとり、母と過ごした日の感懐を詠ったもの。「鮮妍」を除けば平易な詩語でつづられ、手に取るように場面が読み取れる。これが山陽の詩風である。

 この詩の主眼はもちろん結句にある。前半で春の暖かさを増した京都と花の美しさを詠い、それを伏線として、その心地良さの中に二人で宿を共にして親子に通う久しぶりの温かさを感じ取りたい。母の慈愛に包まれ、幸せをかみしめながら、少しだけ若い時の非行をわびているのかもしれない。しみじみとした抒情詩として結んでいる。

参考

  山陽は親孝行者の模範である

 若いころは素行が収まらず、両親を悲しませたものであるが、父春水が亡くなってから、遺された母を不憫(ふびん)に思ったのか、父の3年の喪に服した後、数年を経て、連続して母を京都や吉野に招き、孝養をつくしている。母が60歳で未亡人になってから没するまでの24年間にしばしば京都に招いたり、広島に見舞ったりした。招くのは必ず春から初夏の気候の良い時期を選び、その都度、宇治、嵐山、吉野などの花見、加えて芝居見物や祇園、島原の茶屋遊びなどに連れ出し、日ごろは町儒者としてつつましい生活をしているにもかかわらず、母を喜ばせるためには金銭を惜しまなかった。弟子のうちから「いくら親孝行と言っても行きすぎではないか」と批難するものがあったが、耳を貸さなかった。母は裕福な商家の娘で、快活で社交好きなうえに相当の教養を備えている人だから、喜んで楽しんだようだ。晩年まで健康だったので長い旅を苦にしなかった。(参考=「江戸詩人選集」第8巻=岩波書店)

 これら母に対する愛情を綴る詩は「母を送る路上の短歌」「侍輿の歌」「中秋月無く母に侍す」など多くある。

詩の形

 仄起こり七言絶句の形であって、下平声一先(せん)韻の年、妍、眠の字が使われている。

結句 転句 承句 起句

作者

頼山陽  1780~1832

 江戸後期の儒者・漢詩人・教育者

 広島県竹原市の人で、安芸藩儒者、春水の長男として生まれた。名は襄(のぼる)、字は子成、号は山陽。18歳で江戸の昌平黌(しょうへいこう)学問所で学んだ。ただ素行に常軌を逸脱することが多く、最初の結婚は長く続かず家族を悩ませた。21歳で京都に走ったため、脱藩の罪で4年間自邸に幽閉された。しかしこの間読書にふけり、のちの「日本外史」の案がなったといわれる。32歳のころから京都に定住し、「山紫水明処」という塾を開き子弟の育成と自分の学問に励んだ。子供に安政の大獄で処刑された鴨厓(おうがい=三樹三郎)がいる。享年53。