漢詩紹介

CD②収録 吟者:浅図鳳仙
2015年1月掲載

読み方

  •  獄中作  <橋本 左内>
  • 二十六年 夢の如く過ぐ
  • 顧みて平昔を思えば 感滋多し
  • 天祥の大節 嘗て心折す
  • 土室猶吟ず 正気の歌
  •  ごくちゅうさく  <はしもと さない>
  • にじゅうろくねん ゆめのごとくすぐ
  • かえりみてへいせきをおもえば かんますますおおし
  • てんしょうのたいせつ かつてしんせつす
  • どしつなおぎんず せいきのうた

詩の意味

 自分の過ごした26年の年月は夢の内に過ぎ去って行ったが、これまでを振り返ってみると、感慨は計り知れないほど深く強いものだった。

 つねづね自分は、文天祥が節操を守り、正道を行い続けたことに心酔し心から敬い従っているが、今、幕府にとらえられて、獄中にある身になってみれば、せめて文天祥が獄中で詠んだという「正気の歌」を吟じて、彼の心境をしのぶのである。

語句の意味

  • 平 昔
    昔 以前
  • 天祥大節
    南宋末期の忠臣文天祥が宋国を守るため気高い正道を踏み行つてきたこと
  • 心 折
    心酔する 心から敬い従う
  • 土 室
    地下室 ここでは獄舎
  • 正気歌
    文天祥の長詩の題

鑑賞

  左内にとっての正気とは何か

 安政の大獄に連座され、江戸の牢獄での作である。すでに刑は確定している。であるのに動揺する姿がない。西郷から大人物と評価された左内だが、26歳の若さで肝がすわっていることにまず感動する。その粛々(しゅくしゅく)たる態度を支えているものは何であろう。それが文天祥の堅い生き方の「大節」を守ることなのである。元が宋を滅ぼした折、元国の皇帝は文天祥の軍才を贖(あがな)おうとしたのに、彼は命に代えても、自分はどこまでも宋国の忠臣でありたいと言い続け、ついに捕らえられ、果ててしまった。左内はその大節に心酔するものがあったのである。彼もまた、井伊大老の独断政治に異を唱え、日本の統一と朝廷政治の復活を願う情熱があった。それが彼の大節であり、正気なのであろう。同時代の武市半平太の「獄中作」でも同様に、真心の発露である仁義を貫いてこそ国は栄えると願って獄死している。どちらも一人の信念が万人を感動させる意義ある詩である。

参考

  適塾に入門したころの逸話(福井市春山公民館発刊の「われらのほこり橋本左内先生」より)

 塾生は8級から最上級までありました。左内の頭脳は群を抜き、数か月で最上級に収まりました。おそらく採点する人よりも実力があったので進級の段階を踏まず飛び級をしたのでしょう。ついに緒方洪庵(おがたこうあん)先生は「他日塾名を挙げるものは左内じゃ。彼は池の中の龍じゃ」と褒(ほ)め称(たた)えました。しかしあまり若いので塾長にはなれませんでした。ある夜、寮を抜け出し病気のこじきを診察しているのを見た他の塾生が妬(ねた)み半分に「左内が夜遊びをしている」と先生に告げ口すると、先生は「橋本の外出はこじきの病気を治すためだ。お前たちも少しは見習うがいい」と逆に論されました。

 左内にも悩みがありました。それは書物を買うお金が足りないことです。ある本屋の主人が左内の人柄に惚れて「お金はいつでもよいから持って行きなさい」と言って渡してくれました。左内は感謝して本屋の奥さんの病気を看てあげたりしました。

 洪庵はもう左内を門弟扱いせず、自分の書室に机を置かせて、オランダ語の翻訳の手伝いをさせるほどになりました。

詩の形

 仄起こり七言絶句の形であって、下平声五歌(か)韻の過、多、歌の字が使われている。

結句 転句 承句 起句

作者

橋本左内 1834~1859

 江戸末期の志士

 越前(福井県)藩医・長綱の長子として天保5年3月に生まれる。名は綱紀(つなのり)、字は伯綱(みちつな)、通称は左内。宋の岳飛の人となりを景仰して景岳と号した。医を大阪の緒方洪庵に学ぶ。江戸に出て藤田東湖らと交わり時局に目覚める。帰藩し松平慶永(春嶽)に重用された。第14代将軍に一橋慶喜公をたてて攘夷を断行しようと奔走したがならず、安政5年捕らえられ、翌6年10月斬刑に処せられた。享年26。正四位を贈られる。