漢詩紹介

読み方

  • 石童丸(3-1)<松口月城>
  • 花に雨有り 月に雲有り
  • 悲風亦吹く 苅萱の關
  • 繁氏翻然 佛道に入る
  • 出家遁世 高野の山
  • 故郷の遺兒 石童丸
  • 憐れむ可し當年 十四歳
  • 母を伴い雲山 父を尋ねて來る
  • 人間誰か耐えん 此の恩愛
  • いしどうまる<まつぐちげつじょう>
  • はなにあめあり つきにくもあり
  • ひふうまたふく かるかやのせき
  • しげうじほんぜん ぶつどうにいる
  • しゅっけとんせい こうやのやま
  • こきょうのいじ いしどうまる
  • あわれむべしとうねん じゅうよんさい
  • ははをともないうんざん ちちをたずねてきたる
  • にんげんたれかたえん このおんあい

字解

  • 悲 風
    寂しく物悲しさを感ずるような風
  • 苅 萱
    伝説および古典能狂言中の人物名で苅萱道心のこと 石童丸との哀話として有名
  • 翻 然
    心ががらりと変わるさま
  • 遁 世
    世俗と縁を絶つ

意解

 美しく咲き人の眼を楽しませる花も時には雨にあって散り、美しく輝く月も雲がでて遮る事もある。この苅萱の関にもまた、物悲しい風が吹き人の世の無常をつげるようである。
 繁氏は意を決して仏道に入るべく、世俗の煩わしさを避けて高野山に登り出家した。
 時過ぎて故郷に残された石童丸は14歳となり、不憫にも父への慕情がつのり押さえ難い。
 「父は高野山にあり」とのうわさを聞き、母と共に雲深い山に尋ねて来た。父を慕い夫を慕う母子の情に涙を流さない者があろうか。

備考

 この詩は、作者が下記のような石童丸の物語にもとづいて作られた詩である。
 詩の構造は古詩の形であって韻は次の通りである。
  第2・4句   上平声十五刪(さん)韻の關、山
  第6句     去声八霽(せい)韻の歳
  第8句     去声十一隊(たい)韻の愛
  第10~14句 下平声一先(せん)韻の眠、邊、然
  第16~20句 上声七麌(ぐ)韻の數、父、腑
  第22・24句 上平声五微(び)韻の衣、飛
 の字が使われている。

作者略伝

松口月城 1887-1981

 名は榮太(えいた)、号は月城。明治20年福岡市有田に生まれる。熊本医学専門学校を卒業し、18歳にして医師となり世人を驚かせた秀才である。医業のかたわら漢詩を宮崎来城に学び、詩、書画、共に巧みであった。なお本会顧問を永年つとめられる。昭和56年7月16日没す。年95。

参考

石童丸の物語
 石童丸の物語は、高野山の苅萱堂縁起、長野市安楽山往生寺の縁起や謡曲、浄瑠璃などにより広く世間に流布している。
 崇徳(すとく)天皇の時代(1123-41)筑前の守護職加藤兵衛尉繁昌(ひょうえのじょうしげまさ)は、香椎(かしい)の宮に世嗣出産の願をかけ男児を得たのが繁氏である。繁氏17歳の時家臣原田種正の娘桂子を妻とした。19歳のときに父を失う。
 繁氏は仁平(にんぺい)元年(1151)花見の帰途雨に遭い、朽木尚光(くちきなおみつ)の家に雨宿りをし、その縁で娘千里(ちさと)を妾としたが、本妻桂子の嫉妬はげしく千里を亡きものにしようとした。繁氏は人の世の憂きことを嘆き、俗世を離れ仏門に入るべく高野山に登り、覚心上人によって得度(とくど)し苅萱道心と名乗った。国の千里は繁氏の後を追ったが、播磨国太山寺(はりまのくにだいさんじ=現在の神戸市西区)に身を寄せ、石童丸を生み14年間そこに滞在した。
 石童丸14歳の時、父繁氏が出家して高野山にいるとの話を伝え聞き、母と一緒に高野山をたずねたが女人禁制で母は登れずやむなく一人で登り苅萱道心にあう。しかし父は一度恩愛のきずなを断ち出家した身であり、親を名乗らず子を帰らせる。石童丸は麓の宿に帰る。永万(えいまん)元年(1165)母は病のために死ぬ。
 石童丸は再び山に登り母の死を伝える。父は出家の身である事を考え、石童丸を弟子として信生法師と名乗らせ、生涯父子を名乗らず念仏修行の生活を送ったといわれる。