漢詩紹介

読み方
- 楠帶刀の歌(2-1)<元田永孚>
- 乃父の訓は 骨に銘じ
- 先皇の詔は 耳猶熱す
- 十年蘊結す 熱血の腸
- 今日直ちに 賊鋒に向かって裂く
- 想う至尊に辞して 重ねて茲に來り
- 再拜俯伏して 血涙垂る
- 心を同じゅうするもの 百四十三人
- 志を表わす 三十一字の詞
- 鏃を以て筆に代え 涙に和して揮う
- 鋩は板面に迸って 光陸離たり
- くすのきたてわきのうた<もとだえいふ>
- だいふのおしえは ほねにめいじ
- せんのうのみことのりは みみなおねっす
- じゅうねんうんけつす ねっけつのはらわた
- こんにちただちに ぞくほうにむかってさく
- おもうしそんにじして かさねてここにきたり
- さいはいふふくして けつるいたる
- こころをおなじゅうするもの ひゃくしじゅうさんにん
- こころざしをあらわす さんじゅういちじのことば
- やじりをもってふでにかえ なみだにわしてふるう
- ぼうはばんめんにほとばしって ひかりりくりたり
字解
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- 帶 刀
- 東宮に仕えた護衛の士
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- 乃 父
- 汝の父 子に対する父の自称 ここでは楠正成の事
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- 訓
- 櫻井訣別のときの父正成の訓え
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- 銘于骨
- 骨身にこたえる 深く心得ること
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- 先 皇
- 前の天皇 ここでは後醍醐天皇
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- 耳猶熱
- 耳の底にある 胸中深く残っている
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- 蘊 結
- 思っていることが積りむすばれる
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- 熱血腸
- はげしいまごころ
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- 賊 鋒
- 敵 足利軍の先頭の隊
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- 至 尊
- 天子の敬称 ここでは後村上天皇
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- 俯 伏
- うつむきふす 平身低頭する
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- 血涙垂
- 感きわまり熱い涙を流す
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- 三十一字詞
- ≪参考≫参照
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- 鋩
- 矢じりの先
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- 陸 離
- きらきらと光がまばゆく見えるさま
意解
父正成から桜井駅で受けた遺訓は骨身にしみわたり、先皇後醍醐天皇御臨終の時、彼の賊を亡ぼせとの詔は今もなお耳底に残っているのである。
その後10年間つもりつもった討賊の精神は胸の中にたぎり、今日国賊の先頭に敢然と立ち向うことになった。
思えば正行(まさつら)は後村上天皇にお別れし決意の程を申し上げ、更に後醍醐天皇の御陵である延元陵に再拝して、ひれ伏して熱い涙を流したのである。
同じ志の者143人と共に決死の覚悟をしたのであるが、その志は「梓弓」の歌三十一字の詞に表れている。
鏃を筆のかわりにして、涙と共に揮い如意輪堂の戸びらの板面に、いきおいよく走る矢じりの先はきらきらと光まばゆくみえる。
備考
この詩は明治10年(1877)秋、吹上御苑内での菊花の宴の時、天皇の御命により自ら吟じたもので楠正行の忠節を称えた歌である。
詩の構造は古詩の形であって、韻は次の通りである。
第1句 入声六月(げつ)韻の骨
第2・4句 入声九屑(せつ)韻の熱、裂
第5・6・8・10句 上平声四支(し)韻の茲、垂、詞、離
第11・12・14句 入声十三職(しょく)韻の黑、直、臆
第15・16・18句 上平声十三元(げん)韻の言、存、魂
の字が使われている。
作者略伝
元田永孚 1818-1891
字は子中(しちゅう)、伝之丞(でんのじょう)と称し東野(とうや)と号す。幕末明治の漢学者。文政元年熊本市に生まれる。幼にして学を好み13歳にして詩を作り、進んで修身治国の学に志す。明治4年宮中に入り累進して、明治天皇の侍講(じこう)となる。人に接する時は春風のように和気靄然(あいぜん)として、聖上の恩遇厚く時々共に吟詠を楽しむ。帝国憲法、皇室典範、教育勅語の草案起草にも加わり、「幼学綱要」の編纂にあたった。明治24年、特旨により男爵を授けられた。著書に「東野詩集」がある。明治24年1月74歳にて没す。
参考
「かへらじとかねて思へば梓弓
なきかずにいる名をぞとどむる」
≪字解≫
梓弓「いる」の枕詞
「いる」は射る・入るの掛詞
武器の名を出すことにより、書き留める「名」が兵(つわもの)の名であることや戦場に赴く決意を暗示する。
≪歌意≫
梓弓で射た矢が返ってこないように、生きては帰ることはあるまいと決心したから、あらかじめ過去帳に我らの名を書き留めるのである。
「太平記」によると正行が摂津で北朝軍を破った翌年正平(しょうへい)2年(1347)足利尊氏は高師直ら6万の軍勢を淀川西岸に集結。正行は決戦を前に弟正時ら一族を率いて吉野行宮(あんぐう)に参上、後村上天皇より「朕汝を以て股肱(ここう=手足となる家来)とす。慎んで命を全うすべし」との仰せをいただいた。その後、後醍醐天皇の御廟に参り如意輪堂の壁板に143人の名を記しこの歌を書き記すとある。