詩歌紹介

草枕(抜粋) 島崎藤村

読み方

  • 草枕(抜粋)  <島崎藤村>
  • 夕波くらく啼く千鳥
  • われは千鳥にあらねども
  • 心の羽をうちふりて
  • さみしきかたに飛べるかな
  • 心の宿の宮城野よ
  • 乱れて熱き吾身には
  • 日影も薄く草枯れて
  • 荒れたる野こそうれしけれ
  • ああ孤独の悲痛を
  • 味ひ知れる人ならで
  • 誰にかたらん冬の日の
  • かくもわびしき野のけしき
  • くさまくら(ばっすい) <しまざきとうそん>
  • ゆうなみくらくなくちどり
  • われはちどりにあらねども
  • こころのはねをうちふりて
  • さみしきかたにとべるかな
  • こころのやどのみやぎのよ
  • みだれてあつきわがみには
  • ひかげもうすくくさかれて
  • あれたるのこそうれしけれ
  • ああひとりみのかなしさを
  • あじわいしれるひとならで
  • たれにかたらんふゆのひの
  • かくもわびしきののけしき

語意

  • 草 枕
    草を結んで枕として野宿すること 旅寝
  • 千 鳥
    チドリ科の鳥の総称 河原などに群生する 歩行力も飛翔力も強い 詩歌では冬の鳥とされる
  • うちふりて
    「振る」を強めていう語
  • 心の宿
    心の宿るところ 心そのもの 心中
  • 宮城野
    仙台市の東部にある平野 昔は萩など秋草の名所として有名(歌枕)
  • 味 ひ
    物事のおもむき おもしろみ

詩の意味

暗い夕波に啼く千鳥よ
私は千鳥ではないけれど
心の羽を打ち振って
さみしい方へ飛ぶことができるだろうか

大宮人(おおみやびと)も詠った宮城野は私の心の宿るところ
恋心に乱れて熱い吾が身には
日影も薄くなり草の枯れた
荒野こそ私にとってはここちよい

恋する人から離れた孤独の悲しみは
恋の機微を知る人以外には
この冬の日のこのような
わびしい野の景色を理解してはもらえないだろう

出典

「若菜集(わかなしゅう)」

鑑賞

 若き藤村がこの詩の中で望んでいることは何か

 藤村の詩を数行で語ることはできないが、20歳前後の彼を点出して鑑賞の一助としてみたい。
 「これまで生家である旧家の没落・父の狂死・東京での抑圧された寄宿生活・実家の焼失・兄の収監による家計の負担・加えて婚約者のいる教え子への恋慕とその死。さすがに藤村も人生万事休すと漂泊の旅に出て、死に場所を探すが死にきれない。しかし生への執念も消えてはいなかった。『ああ自分のようなものでもどうかして生きていきたい』(小説「春」の一文)。この一節は藤村の終生の人生観と思っていい。彼の生き方を敢えて大まかにくくると、このような障害・不運にたいして抵抗しようとせず、すべて自分の運命のように受け止め、むしろその重みに耐えられるだけ耐えて、耐えきれなくなると漂泊の旅に出て、解放の息をつき、それを慰めとして生きる力をかろうじて掴(つか)むというのが彼の生き方だろうか」(筑摩書房「日本文学全集・島崎藤村」より)。
 そういう藤村観を借用すれば、仙台の土地こそ再生の場所となろう。この詩の各連の最後の語句「さみしきかた」「荒れたる野」「わびしき野」は、だれが見ても暗い世界を連想させるが、それが彼の生きる力の源ととるなら、そういう鬱積(うっせき)した世界からなんとか脱出したいという青年の心が見えてくる。

備考

 多難な青年時代を送った藤村

 明治25年(20歳)、藤村は明治女学校の教師となるが、赴任早々教え子の佐藤輔子(すけこ)に恋し、打ち明けることもできずに煩悶。翌26年退職し、キリスト教会からも離れて1年近い放浪の旅に出る。20代前半で多難な経験をした藤村は29年、仙台の東北学院に就職する。翌年同校を辞して東京に戻った8月に第一詩集「若菜集」が出版されたのであるが、その殆んどが仙台滞在の1年間に作られたのであって、その意味で仙台という土地は藤村の文学生涯の発端を成すものである。

参考

 ①「若菜集」とは

 明治30年(1897)25歳の8月29日に春陽堂より刊行された藤村の第一詩集。「おえふ」「おきぬ」「おさよ」ら6人の乙女を詠んだ抒情詩のほか52編(序詩を含む)を収めている。すべて七五調である。青春の情熱を香り高く詠い上げた名著。日本の近代詩の夜明けを告げた歴史的詩集。この「草枕」は全部で30連ある長い詩。そのうちの第1連・第10連・第12連の抜粋である。

 ②「藤村詩碑」

 昭和12年(1937)5月建立。仙台市郊外の八木山にある。「草枕」の一部を刻んである。

作者

島崎藤村  1872~1943

明治・大正・昭和前期の詩人・小説家

 明治5年、長野県馬籠(まごめ)村(現在の中津川市馬籠)に生まれる。9歳で学問のため上京、明治学院を卒業後、明治女学校の英語教師となる。翌年、「女学雑誌」の編集に携わった時期に北村透谷(とうこく)に魅せられ「文学界」に加わり、同人として浪漫的な抒情詩を発表。東北学院の教師として赴任した仙台で創作し、明治30年に第一詩集「若菜集」を刊行。続いて「一葉舟(ひとはぶね)」「夏草」を発表。小諸義塾の教師として信州に赴任後、明治34年「落梅集」を発表。小諸では詩から散文への転換期であった。明治38年上京し、翌年「破戒(はかい)」を発表。自然主義の代表的作家となり、数々の著作を発表。長編「夜明け前」は高い評価を受けた。昭和18年「東方の門」を執筆中に没す。享年71。