詩歌紹介

遠き山見ゆ(抜粋)三好達治

読み方

  • 遠き山見ゆ(抜粋) <三好達治>
  • 遠き山見ゆ
  • 遠き山見ゆ
  • ほのかなる霞のうへに
  • はるかにねむる遠き山
  • 遠き山々
  • いま冬の日の
  • あたたかきわれも山路を
  • 降りつつ見はるかすなり
  • かのはるかなる青き山々
  • いづれの国の高山か
  • 麓は消えて
  • 高嶺のみ青くけむれるかの山々
  • 彼方に遠き山は見ゆ
  • 彼方に遠き山は見ゆ
  • とおきやまみゆ(ばっすい) <みよしたつじ>
  • とおきやまみゆ
  • とおきやまみゆ
  • ほのかなるかすみのうえに
  • はるかにねむるとおきやま
  • とおきやまやま
  • いまふゆのひの
  • あたたかきわれもやまじを
  • くだりつつみはるかすなり
  • かのはるかなるあおきやまやま
  • いずれのくにのたかやまか
  • ふもとはきえて
  • たかねのみあおくけむれるかのやまやま
  • かなたにとおきやまはみゆ
  • かなたにとおきやまはみゆ

語句の意味

  • 見 ゆ
    見える 自然に目に映る
  • 見はるかす
    はるかに見わたす

出典

「花筐(はながたみ)」

鑑賞

 家庭的苦悩から脱却を試みる作者

 「花筐」の発刊は昭和19年で、そのころは伊豆方面に滞在していたので、「遠き山」は富士山か南アルプスが考えられる。妻とは既に離婚していた。さらに敗戦前の混乱や恩師萩原朔太郎家の崩壊などに伴う援助など、この詩にも内心は決して爽快な毎日ではなかったことがうかがえるが、ほんの少し明るい兆しが見いだせたのか「遠き山見ゆ」から「遠き山は見ゆ」に、さらに最後は「彼方に遠き山は見ゆ」とわずかながら変化しているところに作者の心の移ろいが感じられる。あえて現代風な説明をすれば「ずっと彼方の山ははっきりと見えるようになった」とでも言えよう。この詩が花筐の最初の頁に「序にかえて」と記されているところを見ると詩集発刊の喜びだろう。詩人としての道が見えてきた明るさで締めくくられている。次第に文語調が減少し現代詩風に変遷する途上の詩である。

参考

 ①「遠き山見ゆ」の後半

ああなほ彼方に遠く
われはいまふとふるき日の思出のために
なつかしき涙あふれいでんとするににたる
心おぼゆ ゆゑはわかたね
ああげにいはれなき旅人のけふのこころよ
いま冬の日の
あたたかきわれも山路を
降りつつ見はるかすなり
はるかなる霞の奥に
彼方に遠き山は見ゆ
彼方に遠き山は見ゆ

     ゆゑはわかたね=  理由はわからないが 「ね」は打ち消しの助動詞「ず」の巳然形
     いはれなき=    説明のつかない

 ②三好達治記念館

 阪急電車で京都線上牧(かんまき)駅で下車する。そこに本澄寺(ほんちょうじ)があり、その境内にある。この寺は達治の弟が住持したものであり、現在(平成30年)はその子息が住職をして守っている。

作者

三好達治  1900~1964

大正・昭和の詩人

 大阪市南久宝寺町に生まれるが、兵庫県三田の祖母の家で育てられる。父の勧めで大阪陸軍士官学校に進学するが、家業再興のため退学。昭和3年に東京大学仏文科を卒業した。昭和5年、有名な詩「甃(いし)のうへ」を含む第一詩集「測量船」を刊行し詩名を得た。昭和9年佐藤春夫の妹智恵子と結婚したが10年後離婚した。堀辰雄らと文芸誌「四季」を発刊し、のち「四季派」と呼ばれる基礎を作り、昭和詩壇の主流となる。昭和19年福井県三国町に疎開し、さかんに執筆。田園調布にて没す。墓は高槻市の本澄寺境内にある。享年63。「測量船」「艸千里(くさせんり)」「駱駝(らくだ)の瘤(こぶ)にまたがって」などの詩集がある。芸術院会員。