6497 「後夜仏法僧鳥を聞く」の意解について

  • 投稿者:
    gusin
  • 地区:
    静岡県
  • 支部:
    浜松鷺長会

私は最近人間としての空海に対して、強い関心を持つようになりました。
ところで、表題の彼の漢詩の関吟の意解にちょっと疑問を感じています。

三宝の声は一鳥に聞く(鳥は無心に鳴いているのであろうがこの鳴き声のうちに仏法僧の三宝を悟ったのである。

一鳥声有り人心有り(・・・)

聲心雲水倶に了了(鳥の声と人の心とが、更に山中の川の流れとまったく一つに溶け合って、ここに佛の教えをはっきりと悟ることができた。

私には上記、転句部分の意解が欠如しているように思われます。
この部分はどのように理解・解釈をすべきでしょうか?

投稿日時: 2013/09/23 15:09:11

No.6498 Re:「後夜仏法僧鳥を聞く」の意解について

  • 投稿者:
    森口雪孝
  • 地区:
    大阪府
  • 支部:
    HP委員

教本の意解・解説だけでは理解しづらい詩も多々あるかと存じます。
関西吟詩の教本詳解(Aの巻別冊1:星野哲史)に以下の解説(意解の補足)がありますので転載します。
転句の「心」は、心機(しんき)というべきものであり「心」そのものではないであろう。
結句の「雲水」は僧(自身)を指すかも知れない。とすれば「聲」は佛であり、「心」は法であり、「雲水」は僧である。之を「ぶっぽうそう」と鳴く鳥の聲に擬した空海の詩かも知れない。
【参考】佛家の詩はその内容から通常の詩の解釈及び詩法を持って論ぜられないことが多い。此の詩の場合も特別の境地に立脚するものであり、仄韻さらに同字が多く用いられている。然し承句の「一鳥」が転句の初めに再度使われる用法は平韻の古詩の作にもある訳で、佛家詩法に限らない。そして前句末の一字又は二字を次句の頭に引き継ぐ用法は、中国詩にも見られる。
なお、この教本詳解は関西吟詩総本部に在庫があると思いますので、必要な方は事務局にお問い合わせください。
また、「三宝」という語については歴史も古く、聖徳太子の「十七条憲法」に次の記載があります。『二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。』
以上参考になれば幸いです。(HP委員)

投稿日時: 2013/09/23 21:02:33

No.6499 Re:「後夜仏法僧鳥を聞く」の意解について

  • 投稿者:
    gusin
  • 地区:
    静岡県
  • 支部:

早速のご回答ありがとうございました。
再検討してみましたところ、意解の行をずらすことにより、整合性が得られるようです。
三宝の声は一鳥に聞く(どこからともなく((三宝の))ブッポーソーと鳴く鳥の声が聞こえる。
一鳥声有り人心有り(鳥は無心に鳴いているのであろうがこの鳴き声のうちに((私は))仏法僧の三宝を悟ったのである。)
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尚、私は最近突然、愛犬を亡くしまして、悲嘆にくれていました。
この時、偶然に空海の「哀しいかな」という詩を目にしまして、名僧空海でさえも愛弟子の死に遭って、その悲しみを克服できなかったその人間性に深く感動と共感を覚えました。

投稿日時: 2013/09/24 02:51:58