6623 感動させる詩吟

  • 投稿者:
    平川拓鷹(鷹詠館総範師)
  • 地区:
    大阪府
  • 支部:

 今から三十数年の昔であろうか。私が診ている患者の中に、九十歳近い高齢ながら、長身で背筋がしっかりと伸び、まるで古武士を思わせるような風格の男性患者がいた。この方が山崎翠川先生であった。翠川とは詩吟の雅号である。山崎先生は、関西吟詩文化協会の師範で、当時「翠川会」という吟詩会を主催しておられた。私が詩吟をやっている事を話すと、「翠川会の吟詠大会に是非来てください」という。翠川会の会員は百三十名ほどあり、毎年吟詠大会を開いているのである。
 というわけで、ある年に翠川会の大会に出席させていただいた。私は、客席で見物するだけだと思っていたのだが、当日のプログラムを見ると、会員吟詠の終わった後の、来賓の先生方の模範吟詠のトップに私の名前が載っている。来賓の先生方は、私でも名前を知っているような一流の先生方が多い。その中で、関心流の中伝が模範吟詠をするなんて、さすがの私もビビッテしまった。
 司会が、「平川先生」と先生つきで名前を紹介する。来賓吟詠は詩吟の先生ばかりだから、先生という敬称は当然である。
「先生と紹介していただきましたが、私は詩吟の先生ではなく、医者のほうの先生でありまして……」と慌てて弁解しなければならないような始末であった。それにしても、関吟の錚々たる先生方に混じってよくぞ下手な吟を披露したものだと顔が赤くなる。
 山崎翠川生から一冊の書を頂いた。『詩吟基礎入門』と題して山崎翠川先生が書かれた本である。本といっても、正規の出版ではなく、七十数ページのいわばPTAが出す文集のような小冊子であるが、漢詩から吟詠に至るまで、多くの書物を研究し、自身の考察も加えてあり、詩吟を学ぶ上での心得が説かれている。
 この前書きより引用したい。

 約四十年の昔のことである。
 日華事変の最中、私の大隊(歩兵第七十九連隊第三大隊)は、約五十日間北支山西省聞喜県城に於いて、当時中国軍でも精鋭とされた衛立衡軍二ヶ師の敵の重囲の中に在った。所謂籠城である。文字通り昼夜を分かたず間断なく至近距離銃砲撃を蒙った。
 当時、糧食弾薬は一週間分を余すのみで、全く補給の目途がたたず、この先いつまでこの状態が続くか分からぬまま、止むを得ず応戦を禁じ、飢えに耐えた。
 敵もさるもの、最後には遠くから坑道を掘り、高さ十数米幅五米の城壁の一角を地下より爆破崩壊せしめ一斉に城内に突入してきた。こういう状況下、ともすれば志気の阻喪することを慮り、城壁上に拠る守備兵を激励するため、腰を屈めて東門望楼に近寄ると誰が作ったのか側壁に次の詩が白墨で書いてあった。
      聞喜城死守
  敵は増シ緑ハ茂リ月未ダ出デズ
  弾薬ツキルモ援隊ヲ乞ワズ
  ナレド敵弾城壁ヲユルガス
  糧秣にカエン犬マダ多ケレバ
  粉骨砕身以テ死守セン
  決意ハ堅シ聞喜城
 勿論、辞書もないから平仄押韻は整っていないが、実感がこもっていた。感動した。志気の未だ衰えざることを知って、意を強くし安心した。
 月は皎々として城内を照らす。
 やや砲声も静まったかと思うとき、朗々として「霜は軍営に満ちて秋気清し……」、上杉謙信作九月十五夜の詩が聞こえてくる。それが次いで「山川草木転た荒涼……」乃木将軍作金州城の詩となり、また大楠公篇となる。機関銃隊坂本少尉の吟声である。志気が自ずと振い立つ。感激の極である。
 あの時程「詩」に感動し「吟」に感激したことはない。「時」と「場所」によって、詩と吟はいよいよ生きてくることを知った。

 以上は、山崎翠川先生の著作から引用させていただいた。この時の詩吟の感動によって日本兵は志気を高め、死地を脱出して無事帰還することが出来たのである。
 山崎先生は、会社を定年退職後に松下電器の青年寮を預かることになった。若い寮生たちに詩吟を勧めることにし、関吟から師範を招聘し、自らも六十歳にして詩吟の道に入門したのである。爾来二十年。関吟の師範になった山崎先生はその人徳を慕われて、多くの弟子を有し、翠川会という吟詩会を立ち上げたのである。

   山崎翠川先生を偲びつつ  平川拓鷹

投稿日時: 2014/01/14 10:26:33