6682 『題峨眉山下橋杭』に纏わる話題

  • 投稿者:
    植野雅量
  • 地区:
    大阪府
  • 支部:

先日、課題詩内容疑義照会に際しまして、早速ご回答戴き有難う御座いました。
 本日お問合せの件につきましては、ホームページを拝見しての質問ですので、昨年第1回「詩游クラブ」で詳細なご説明がなされているのであれば、ご容赦ください。
実はここ1週間の韓国に関係する話題がテレビで放映され、その話題から表記の『峨眉山』についての疑義を想起しました。ご教示宜しくお願い申し上げます。
1.想起するに至った話題その1
「2014年06月23日 韓国北東部・江原道高城郡の韓国軍哨戒所で21日夜、銃を乱射し同僚兵士ら5人を殺害、7人に重軽傷を負わせた兵士(22)は23日、現場から約7キロ東の山林で自殺を図り、病院に運ばれた。」とのニュースで、約40年前にソウルから東方にある江原道麟蹄郡麟蹄邑に訪れたことを想起しました。ここに娥眉山郡立公園があり、娥眉山960.8mがあります。江原道は日本海に面しております。新潟とも一直線の最短距離にあります。
 韓国の娥眉山は数カ所あるとのことですが、承知しておりません。只、韓国の娥眉山の娥が女扁に対して、中国は山扁の峨眉山である。
 日本に流れ着いた流木には『娥眉山下橋(木+喬と縦に書かれている)』。
2.想起するに至った話題その2
「2014年06月24日南ソウル大学校学生が北陸の海浜で韓国より流れ着いたゴミの清掃をもう6年前より毎年行っている。特にプラスチックが多いとのことで、清掃作業の映像が流れていた。」南ソウル大学は韓国のキリスト教系の総合大学である。
米国科学アカデミーによると毎年600〜700万トンのごみが海に流入しているという。環日本海環境協力センター(NPEC)の調査では、日本に漂着するごみは毎年15万トン程度と推定されている。プラスチック類が7割弱を占める。他方環境省は、東日本大震災で岩手、宮城、福島の三県から流れ出たがれきは133万トン、うち4万トンが来年2月までにアメリカ西海岸に漂着すると推測している。
以上2つのニュースをみながら、断定的には云えないが、可能性としては、四川省の山奥から流れ出るより、韓国から一直線に流れ着く方が確実なのではないか。
 種々文献を調べていると、この問題については江戸時代から問題提起されていたようで、文政8年12月(1826年1月)、現在の新潟県柏崎市宮川浜に大きな木柱が漂着した。同じ年に「外国船打ち払い令」が出されており、外の世界との接触に神経質になっていた頃である。この木柱については鈴木牧之(1770〜1842年)が『北越雪譜』の中で木柱の図を付して「丈一丈余、周(まわり)二尺五寸余、木質(きはなんとも)弁明(なづく)べからず」と、書き記している。これを拾った漁夫は薪にしようとしたが、「娥眉山下橋」と刻印されている。通りがかった僧が「娥眉山下の橋」と読んで唐土から流れ着いたものだということを説明したために、燃やされることは免れた。木柱の評判は広まり、ついに椎谷藩藩主に献上された。その後木柱は戊辰の役の頃藩主堀侯より柏崎の村山家九代哲斎翁に下賜され、現在は柏崎市の貞観園に保存されている。
標木が朝鮮のチャンスンである可能性
ところが、この標木は実は中国四川省の峨眉山から漂着したものではなく、朝鮮から日本海を渡って漂着した可能性が指摘されている。
 早くも1910年代に新潟県柏崎市の郷土史家である関甲子次郎が『柏崎文庫』14巻において、この標木が朝鮮の民間でよく建てるチャンスンであろうと主張した。
 金斗河氏の研究によれば、中国四川省で痘瘡(天然痘)を治癒するために、峨眉山神女という女人神位像を建て、服装を着せて<痘神娘娘>と唱えながら祈願する風習が発生し、その風習が朝鮮に痘瘡が蔓延していた18世紀頃に伝わり、その関連で峨眉山という地名が朝鮮の各地に生まれるようになったという。そして峨眉山という名前の山も朝鮮に複数存在するという。金斗河氏は朝鮮のどこかで痘瘡の治癒を祈願して建てたチャンスンが洪水によって流され、新潟県の海岸へ漂着したと推定した。金斗河氏はさらに標木が新潟県の海岸に漂着した1825年その前年に朝鮮南部地方に大洪水が発生していたことを『朝鮮王朝実録』の記録から確認した。
柏崎市の貞観園にある現物なり、写真を見ても橋杭になるような代物ではない。
このほかにも、いろいろな説を述べておられるが如何なものなのでしょうか
若しご存知のことがあればご教示お願い致します。 以上

投稿日時: 2014/06/29 16:36:40

No.6683 Re:『題峨眉山下橋杭』に纏わる話題

  • 投稿者:
    森口雪孝
  • 地区:
    大阪府
  • 支部:
    HP委員

 掲示板アラカルト「思い出の書き込み・その他」の、投稿No.6449 をご覧いただいたことと存じます。
 植野雅量さんの『題峨眉山下橋杭』に纏わる話題の書き込みは非常に興味深い内容です。
 漢詩観賞会、詩游クラブ 第一回発表会における「峨眉山月(李白)」解説時に能田岳泉先生から次の詩の紹介があり後日資料の提供がありましたので、参考として以下の内容を記載しました。
【文政8年(1825)12月、峨眉山の麓に水害があり、峨眉山下橋が流され、その橋杭が岷江、長江を流れ、遠く東海を流れて玄海を北上し、出雲、若狭の沖を経て越後(新潟県)の宮川浜に流れ着いた。海に漂う角材は直径二尺、縦は一丈あり、地元の漁夫が拾い上げ、薪にしようと表に立てかけていた。遠く六千キロも流れてきた古材には「峨眉山下橋」と美しい彫刻の文字が彫られていた。それが良寛の目にとまったのであろう。良寛は恐らく李白の詩をそらんじてたのではあるまいか、次の詩を詠じた。】
  題峨眉山下橋杭  良寛
不知落成何年代   知らず 落成は 何れの年代ぞ
書法遒美且淸新   書法は 遒美 且つ淸新なり
分明峨眉山下橋   分明なり 峨眉山下の橋
流寄日本宮川濱   流れ寄る 日本 宮川の濱
【良寛研究の大家であり、日中友好漢詩協会の会長であった柳田聖山氏が、地元新潟の石材を使って良寛詩碑を作り峨眉山下に建てることを発願され、三年かけて浄財を募り詩碑を完成した。詩碑は海路宮川浜を出発、橋杭の流れとは逆に六千キロ離れた峨眉山下に運ばれ、二百年前に失われた峨眉山下橋を作り、清音閣の一画に良寛詩碑と橋柱東流図を建てた。】
 学説は真偽を究明するため色々な説があることと存じます。植野さんの疑義は的を得ていると思いますが、ロマンとして感受する方が楽しい場合もあります。(HP委員・詩游クラブ世話人:森口雪孝)

投稿日時: 2014/06/29 21:44:30