6686 詩游クラブに参加して

  • 投稿者:
    shigindaisuki
  • 地区:
    京都府
  • 支部:
    華洲会京阪樟葉

時間の許す限り参加し高師先生の研究発表を拝聴することを愉しみにしています。又、先生方の教養溢れる見識博識とお勉強の内容を聴くにつけ敬服致しております。

 早速ですが、本日の能田岳泉先生の「流謫の詩人蘇軾」の質疑の中で、軾と轍の名前の由来について車偏についてのついての質問がありました。

蘇洵が、息子の「軾」「轍」という名のいわれについて、父の洵は「名二子説」(二子に名ずくるの説)があります。

「軾」は車の前の横木。車中で敬礼するとき、両手をかけ身をかがめる。
「轍」は、わだち。これを辿っていくと通りやすいので、車はみなその上を通る。

【輪輻蓋軫は、皆 車に職(つかさざ)ること有り、し而るに軾は独り為す所無き者の若し。然りと雖も、軾を去らば則ち吾 未だ其の完車為るを見ざるなり。
 軾よ、吾は汝の外飾せざるを懼(おそ)るるなり。
天下の車は、轍に由らざる莫し。而るに車の功を言う者は、轍は与(あずから)ず。然りと雖も、車仆(たお)れ 馬斃(たお)るるも、而れども患(わざわ)いは亦た轍に及ばず。是れ轍なる者は善く禍福の間に処するなり。 轍よ、吾は免れんことを知るなり。】

《要約》
車の輪、車の輻、車上のかさ、車体の枠は、いずれも車に対して受け持つ役割がある。ところが車の前部にある軾だけは、何も受け持つことがないもののようである。しかし、礼儀の上で必要なこの軾を取り去ったら、私はそれが完全な車であるとはみなさない。軾よ、私はそなたが外面をととのえず礼儀を重んじないことが心配で、この名を授けたのだ。
 世の車は、みな路上のわだちの上を通って行く。ところが車の功績を説く場合には、わだちはその数の中に入らない。 しかし、車が倒れ馬が死ぬような事故があっても、其の災いはわだちにまで及ばない。
つまりわだちというものは、功績をほめられない代わりに災いを受ける事も無く、禍と福との中間にうまく身を保っているのである。
 轍よ、私はそなたが災いにあわずにすむであろうことを予知して、この名を授けたのだ。
 (NHKライブラリー「漢詩を読む蘇東坡」石川忠久著)

投稿日時: 2014/07/15 20:59:44