6746 A7−2の題壁の作者について

  • 投稿者:
    菅原英介
  • 地区:
    神奈川県
  • 支部:
    東京芦孝会

お尋ねします。A7−2の「題壁」は、漢詩の事典など何冊かの本を参照したところでは、すべて、釈月性作となっています。釈月性が27歳の時、大阪の篠崎小竹の梅花塾に入塾するにあたり、故郷を出立するさいに、「将に東游せんとして、壁に題す」という七言絶句二首の第一首となっています。漢詩鑑賞事典(石川忠久編、講談社学術文庫、P834)、漢詩の事典(松浦友久編、大修館書店、P268)、漢文名作選5(鎌田正監修、大修館書店、P84)、幕末維新の漢詩(林田慎之助、筑摩書房・筑摩選書、P221)などです。関吟の作者村松文三は、釈月性と親交があったようですが…。もし釈月性が正しいということになれば、訂正されるのでしょうか?

投稿日時: 2014/11/05 14:06:06

No.6747 Re:A7−2の題壁の作者について

  • 投稿者:
    森口雪孝
  • 地区:
    大阪府
  • 支部:
    HP委員

本件のお尋ねについて「関西吟詩の教本詳解(A)」から抜粋して記載します。
A7−2「題壁」は、本会も旧版(戦前)の教本には「釋月性作」とあったが、戦後の現教本では、宮崎東明先生が「村松文三作」と改められた。
村松文三 : 文政十二年(1828)〜明治十七年(1884) 三重県伊勢山田の人、名を文三といい、号を香雲と称した。・・・(中略)・・・生れつき資性慷慨(いきどおりなげく)の性格。為に青狂(せいきょう)とも呼ばれた。
「この詩は作者が十五才のとき、故郷伊勢を出るとき、自分の固い決意を壁に書き付けたもので、ひとかどの人物にならないうちは、故郷の土は決して踏まないとしたもの。
この詩が往々にして僧月性(号清狂)の作と伝えられているのは、誤りである。安政五年刊の近世名家詩鈔の編者が、この詩に「青狂」と記してあったのを誤って「清狂」とし、月性作としたのが誤伝のはじめである。このことは駿河池谷観海氏が、文三の伝記を書き、その中で立証した。また、近年文三の直話が発表され、ことに文三の遺族は伊豆に住し、それらのことで長い間の誤りが、近年訂正されたと。(山田準著「日本名詩選」(註)上智大教授山田勝美文学博士の著)による。
尚この「題壁」を月性作とする説に、「天保十四年月性二十七才のとき、山口から東上し、大阪の篠崎小竹の門にはいろうとした時の作であるという。萩市の松陰神社にある『清狂吟稿』の中に月性自筆のこの詩があるので、月性説は、ほとんど動かぬものになった」とある。又詩題も「将東遊題壁(まさにとうゆうせんとしてへきにだいす)」ともある。
いずれにしても、この「青」と「清」の狂いが、作者をこのように二様にしたと云うことなる。
参考として、この詩が作られた時期を、作者の生年と作詩した年齢を見比べると、村松文三作(1843年) 釋月性作(1844年)ということになります。(HP委員)

投稿日時: 2014/11/05 17:01:52