7541 律詩の構成と譜つけ

  • 投稿者:
    鈴木 宏久(芦泉)
  • 地区:
    神奈川県
  • 支部:
    東京芦孝会

現在、師範代です。そろそろ準師範資格獲得もあり、律詩の勉強をと思っています。律詩は2句ごとで首聯・頷聯・頚聯・尾聯と8句であり、頷聯と頚聯では対句をなしているとのこと程度から始めています。。
 つまりは、三体詩で周弼が、七言律詩で5分類している内の、四実でも四虚でもあるいは五言律詩での8分類のそれぞれにおいても、2句ごとの展開が基本と知るところとなりました。特に中4句(頷聯・頚聯)の展開は絶句以上に味わいが深く感じます。
 しかしながら、現在の殆どの律詩での譜付けは、あたかも「絶句の譜付け(起承転結を前提とした譜付け)を(若干変わるものの)2回繰り返されている」ような感じを受けておりまして、若干の戸惑いを感じます。今まで、何の疑問もなく、その譜付けで律詩を吟じてはいましたが、絶句でいう起承転結的な1句単位での展開は律詩の場合は2句ごとに表現されるべきではないでしょうか?「2句毎」を前提とした譜付けとなると、吟じながら「対句」をなお一層味わえることににも・・・。自分なりに試みに、B1-1の「華城春望」を2句単位での表現を意識した譜付けに替えて吟じてみましたが、「千帆白く・・・」の第4句と第5句の「萬樹青く・・・」の対句や、「酒を売る・・・」からの2句での「華城の春望」の高まりを十分楽しめる譜付けができたと勝手に悦に入ってはおります・・・、が、現状の譜付けはどういった原則で決められているのかを知らずしてこうした愚行も???との反省はあるものの、いっぽうではこうした疑問が膨らむばかりです。どのように考えればよいのでしょうか?ご指導いただければと、書かせていただきました。

投稿日時: 2016/12/27 19:05:16

No.7542 Re:律詩の構成と譜つけ

  • 投稿者:
    森口雪孝
  • 地区:
    大阪府
  • 支部:
    HP委員

詩吟発達の歴史(中村長八郎著作より引用)を紹介します。参考になれば幸いです。
★中国の詩吟は、上代から漢詩そのものが音楽に合わせて歌うために作られたもので、先祖の祭り、人の送別とか宴会の場で詩を音楽に合わせて歌ったという事実は多くの文献に記載されている。
★平安時代:漢詩文の秀句を朗詠【源 雅信(源家一派)・藤原公任(藤家一派)等】
★鎌倉時代:漢詩文学は衰えてきたが、二句一連の漢詩と和歌の「歌合わせ競技」が盛んになった。
★室町時代:文教は衰退したが、詩会が盛んになり三船御会(詩・歌・管絃の三船)などが上層階級(足利学校・京都五山の僧侶・武人等)で行われたりした。
★江戸時代:官学(朱子学)、神道が合体し、昌平黌・藩校・私塾による口伝詩吟(学舎吟)が発達
【昌平黌】 1632年 林羅山が上野忍ヶ岡に建てた学舎が後(将軍綱吉の時)に湯島台、昌平坂に移され昌平黌また湯島聖堂とも呼ばれた。安政(1854〜1880)の頃、書生たち間で口伝詩吟(学舎吟)が盛んになり、ここで漢詩文の朗誦、朗吟を学んだものを各藩校に持ち帰り各藩独自の地吟に発展した。
【藩校】養賢堂流(仙台)、興護館流(米沢)、日新館流(会津)、講道館流(水戸)、時習館流(熊本)・肥後流(時習館)、修猷館(筑前)等
【私塾】南溟流(福岡・亀井小楠)、山陽流(賴山陽)、玄瑞流(山口・久坂玄瑞)、弥生流(土佐)、聖堂流(大館憲風)、咸宜園流(淡窓流)・・・・等々。
『廣瀨淡窓』:亀井南溟に学ぶ。24歳にして私塾桂林荘を開き、後に咸宜園と改名した) 淡窓の名を慕って全国64カ国の各藩から集まった塾生は4,617人に及んだ。「宜園においては、入学式に際し新旧学生の紹介式で塾歌を吟詠し、学舎吟又は正風吟と称して詩の正しい吟詠法として地方に分散して伝吟し咸宜園流の名が広まった。
★明治初期:幕末、維新の余風を残して高歌放吟型が流行。また、薩摩琵琶の曲節の中に漢詩を入れて吟ずることが起こり、明治・大正を経て昭和初頭から新しく脱皮した詩吟に移行させながら発展した。
★明治後期:琵琶が時勢を得て盛んになり、浪花節、剣舞も相当の勢いで発展。詩吟は剣舞や琵琶に依存しながら発展してきた。明治27年、日清の戦端が開かれると出征兵士の送別会などで詩吟や剣舞が盛んに吟演され、終戦後も引き続き盛んであった。
★大 正 期 :洋楽の流行と琵琶の洗練された技巧的節調などから大きな影響を受け、繊細な情味と音楽性への志向展開の研究期と言える。吟史の上から見ると詩吟の衰退期といえる。
★昭和前期:歌謡曲や映画の主題歌などが一般に浸透し、昭和2・3年頃までは詩吟の胎動は僅かであったが、昭和6年の満州事変を契機として日本精神の復興が叫ばれ、古典邦楽としての詩吟が脚光を浴びた。安達謙蔵の開催した「八聖殿大会(全国組織の詩吟大)」が原動力となった。昭和10年5月25日、横浜の八聖殿において「第二回全国詩吟大会」が開催された。主な出吟者は、渡辺緑村、伊藤長四郎、諸富一郎、雨宮国風、木村岳風、磯部賀堂、山田積善、佐々木孝吾、吉村岳城、本間清郷、大麻博之、岡田信蔵、鶴田旭荘、小田原国尊、糟谷耕象、矢橋学、真子西洲、真尾昇雲、佐々亮斎、木邨真祐、湯沢天真、宮崎東明、鈴木吟亮、鈴木凱山等
☆蛮声型、壮士型から漸く脱し、また琵琶師、特に薩摩琵琶の技巧的に洗練された節調は、華麗な中にも雄渾な響きを持つようになり、独立した詩吟調の研鑽に歩を進めてきた。
『渡辺緑村』:明治22年、熊本県甲佐町に生まれた。時習館流(肥後流)を学び、大正の初葉から一貫して吟詠指導に全力を傾け昭和初期から各地(北海道〜九州)に講演、吟詠講習・大会を催した。
『木村岳風』:明治32年信州上諏訪で松木家の長男として生まれた。7歳の頃、吃音矯正のためと熊本で聞き覚えた姉が詩吟を教えた。大正14頃から薩摩琵琶・剣舞・漢詩・詩吟の秘伝を受け、渡辺緑村の門を叩き詩吟行脚が始まった。全国を巡遊してあらゆる流派の節を研究し、昭和2年、詩吟教授としての私塾を開き、東京での先鞭をつけ、爾来全国の軍隊・学校を余すところのないまでに巡回した。また、レコード各社の要請で二百篇を吹き込んだ。
『真子西洲』:明治40年、肥前「はがくれ精神」をうけ佐賀県の中原村の山田に生まれた。小学3年の時、渡辺緑村先生の吟ずる詩に感激し詩吟への病みつきの第一歩が始まり、中学5年の夏期休暇には詩吟行脚をやり、その後関西大学に入学し「愛国学徒連盟吟詩部」を創設。木村岳風が大阪へ巡回講演に出向いた時には熱心に指導を受けた。昭和9年1月、藤澤黄坡教授・宮崎東明先生の後援を得、関西吟詩同好会を結成し初代宗師範となって数多くの師弟を養成した。
★昭和後期:昭和20年8月15日、終戦後は日本民族精神の作興を促すような言論、歌舞、武術、その他の会合は一切禁止され、詩吟や剣舞などの大会も禁止された。昭和21年1月1日、和歌の朗詠を連吟(木村岳風・伊藤長四郎・山田積善)で東京中央放送局から放送したが、迫力ある吟調は消えていた。昭和24年4月1日、関西吟詩会長宮崎東明、宗師範八木哲洲を中心に戦後の新テキスト第1号をGHQ検閲の元に発行された。昭和26・7年当時から、徐々に吟声が響きはじめ、昭和30年以降の詩吟の普及発展はめざましいものがあり、全国市町村の果てまで浸透するに至った。昭和34年、大阪府詩吟連盟が結成。昭和37年には「全日本愛国詩吟連盟」を復活。昭和43年、笹川良一が主唱し吟界の首脳部を役員として「財団法人日本吟剣詩舞振興会」を結成し、今日の全国的な吟界発展に継っている。
全国の詩吟愛好者は三百万人とも四百万人とも言われているが、正確な実数を掴むことは難しい。
流派の数も全国津々浦々まで数も多く、二千〜三千流派会に及ぶと推測されている。  
詩吟の吟調についても、琵琶風、剣舞風、学者風(学舎風)、書生風、豪傑風、芸人風、散策朗吟風、微醺陶酔風、慷慨悲憤風、優美淡麗風、唱歌風、祈祷風等がある。
★【関西吟詩の歴史を築いた諸先生】(関西吟詩「風雪五十年史」より抜粋)
昭和9年1月7日(1934)関西吟詩同好会設立
真子西洲(初代宗師範)—八木哲洲、伊豆丸鷺洲、宮崎扇洲、橋本嘉洲、三浦華洲、三宅正洲、保田春洲 、田中鴻洲、仲間湖洲、森川鳴洲、福田穂洲、福山白洲、土清水浩洲、岡林貞洲、田村土洲、今井恵洲、萩原長洲、鈴木嶺洲、樽井英洲、他
松尾志洲(哲心流吟詠志修会設立)
藤井芳洲(関心流興道吟詩会設立)
秦 紫洲(紫洲流日本明吟会設立)
昭和16年8月(1941)真子西洲、吟道大東亜を創立し本会より分離。
八木哲洲(第二代宗師範)田中哲菖、、藤元哲湊、安井哲真、川崎哲川、笠原哲桜、向山哲滄、地蔵哲皚、星野哲史、内海哲鴎、亀井哲親、奥村哲靜、栗山哲成、安川哲堂、山本哲柳、古田哲壮、関根哲西、鍋田哲扇、山村哲南、梁川哲欄、田中哲玲 、毛登山哲鶯、谷口哲耀、西田哲陽、脇田哲村、他
池田哲星(粋心流星華吟詠会設立S.37)
山岡哲山(哲洲流哲山会設立S.43)
黒川哲泉(哲泉流日本吟詩学会設立S.46)
北川哲水(哲水流八紘吟詠会設立S.47)
榎畑哲尊(哲洲真流哲尊会設立S.47)

投稿日時: 2016/12/28 08:56:58