漢詩紹介

吟者:熊谷峰龍
2011年1月掲載[吟法改定再録]

読み方

  • 九月十三夜  <上杉謙信>
  • 霜は軍営に満ちて 秋気清し
  • 数行の過雁 月三更
  • 越山併せ得たり 能州の景
  • 遮莫 家郷の 遠征を思うを
  • くがつじゅうさんや <うえすぎけんしん>
  • しもはぐんえいにみちて しゅうききよし
  • すうこうのかがん つきさんこう
  • えつざんあわせえたり のうしゅうのけい
  • さもあらばあれ かきょうの えんせいをおもオを

詩の意味

 霜はわが陣営に満ち満ちて、秋の気は清く澄みわたり、いかにもすがすがしい。空を仰ぐと、幾列かの雁が鳴き渡っており、夜半の月は皎々と冴えわたっている。
 さて今夜は、越後、越中の山々にさらに能登も併せて、まことに雄大な景色が眺められることだ。故郷の家族たちが遠征のわが身を案じていようが、それはそれでかまわない。(今夜はこの明月を心行くまで眺めようではないか)

語句の意味

  • 軍 営
    陣営 軍隊の宿営しているところ
  • 三 更
    夜12時ごろ
  • 越 山
    越後(今の新潟県)、越中(今の富山県)の山々
  • 能 州
    能登(今の石川県能登半島地方)の国
  • 遮 莫
    ままよ どうであろうともかまわない
  • 家 郷
    ふるさと

鑑賞

  文芸武将の風雅の精神ここにあり

 謙信は戦国武将でありながら文芸を好み、四書五経(ししょごきょう)に通じ、国学にも造詣(ぞうけい)が深かった。その素養は前二句に表れている。「霜」「雁」などの季節感と、その夜の情景が溶け合って、武人とは思えないほど風雅な歌い方である。また結句では「故郷の人が遠征の自分を思う」となっている。一般的には李白の「静夜思」のように、自分が故郷を思う詩が多い。この逆転の発想は、高適の「除夜作」や王維の「九月九日山東の兄弟を憶う」などに見られるが、数は少ない。そういう中国の名詩も念頭に置いていたのではないか。文芸武将の面目を見る。

備考

 この詩の本題は「九月十三夜陣中作」であるが本会では「九月十三夜」と略した。なお謙信は生涯この一作しか遺していない。稀有(けう)の作品である。
 上杉謙信はもともと越後の領主である。戦国時代ゆえ領土拡張は雄藩の望むところ。天正元年(1573)に越中を制圧し、その2年後に能登に出陣した。七尾(ななお)城(石川県北部)攻めが、たまたま9月13日にあたっていた。この日の月は仲秋の名月に次ぐ明月である。そこで陣中の兵士の慰労を兼ねて月見の宴を開いたのである。七尾城攻略の本陣は能登と越中を望む石動山(せきどうさん・いするぎやま=565m)にあったといわれる。

参考

 土井晩翠(ばんすい)の「荒城の月」の第2章に「秋陣営の霜の色、鳴きゆく雁の数見せて」とあるのはこの句の借用だろう。それほどこの前2句がすばらしいということになる。

詩の形

 仄起こり七言絶句の形であって、下平声八庚(こう)韻の清、更、征の字が使われている。

結句 転句 承句 起句

作者

上杉謙信  1530~1578

 室町時代後半(戦国時代)の武将

 越後の守護代長尾為景(ためかげ)の次男として生まれ、幼名を虎千代、元服して影虎(かげとら)といい、また不識庵(ふしきあん)と号した。32歳の時、輝虎(てるとら)と改め、41歳以降は仏門に帰依(きえ)して謙信と称した。川中島における武田信玄との一騎打ちは有名で、永禄4年9月、31歳の時ともいわれている。常に朝廷の衰微を嘆き、時に資財を献じてその勢いを張っていた。信玄の死後、足利幕府を再興しようとして、織田信長と天下を争ったが、果たせぬまま春日山で没した。享年49。敵に塩を送った史話や生涯妻帯しなかったことなど個性豊かな人物である。