漢詩紹介
吟者:谷﨑奘皚
2017年9月掲載
読み方
- 両英雄<徳富蘇峰>
- 堂堂たる錦旆 関東を圧す
- 百万の死生 談笑の中
- 群小は知らず 天下の計
- 千秋相対す 両英雄
- りょうえいゆう<とくとみそほう>
- どうどうたるきんぱい かんとうをあっす
- ひゃくまんのしせい だんしょうのうち
- ぐんしょうはしらず てんかのはかりごと
- せんしゅうあいたいす りょうえいゆう
詩の意味
威風堂堂と錦の御旗(みはた)を押し立て、官軍は関東に進み、その勢いは関(かん)八州を圧している。江戸百万人の庶民の死と生が危ぶまれるとき、西郷と勝は談笑のうちに江戸城を明け渡す和議を結んだ。
物事を見極められない人人には、二人の考える天下の謀(はかりごと)は知る由もないが、日本の進路を誤らなかった二人の英雄の偉業は永遠に語り伝えられるであろう。
語句の意味
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- 錦 旆
- 錦の御旗 官軍のしるし
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- 百 万
- 江戸百万人の庶民
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- 群 小
- 物事を見極められない人人
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- 千 秋
- 長い年月
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- 両英雄
- 西郷隆盛と勝海舟
鑑賞
天下を遠望した西郷と勝
江戸城を無血開城に至らしめた、当時のいわば日本を代表する政治家を称えている。両名とも日本を揺り動かした大人物であるだけあって、語句も豪放である、「錦旆」「圧」「百万」「天下」「千秋」「英雄」など誇大表現ともいえる詩句を並べ、一層壮大な詩情が醸(かも)しだされているのは、この詩の良さの一つであろう。両英雄の偉業を称えて東京のJR田町駅の近くに「西郷隆盛・勝海舟会見之地」の記念碑と壁画が作られている。
備考
江戸城無血開城の背景
明治元年(1868)3月、すでに大政奉還の号令は出ているのに幕府はなかなか政権を放棄しない。そこで朝廷の許しを得た討幕軍薩摩・長州をはじめとする官軍は、江戸城総攻撃を3月15日と定め東に向かった。官軍と幕府の間であわや実戦必定(ひつじょう)と思われていた時、幕府代表の勝が会見を申し出て、官軍代表の西郷と3月13・14日に東京芝にある薩摩藩邸において会見し、江戸城無血開城が実現したのである。
参考
明治元年(1868)の出来事
旧暦 1月 戊辰(ぼしん)戦争始まる
3月 五ヵ条の御誓文(ごせいもん)発令
4月 江戸城無血開城
5月 奥羽越列藩同盟が成立し、新政府に対抗
7月 江戸を東京と改称
8月 会津戦争 白虎隊悲話
9月 明治元年
10月 天皇が東京に行幸
江戸城を東京城とし皇居と定める
詩の形
平起こり七言絶句の形であって、上平声一東(とう)韻の東(とう)・中(ちゅう)・雄(ゆう)の字が使われている。
結句 | 転句 | 承句 | 起句 |
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作者
徳富蘇峰 1863-1957
明治から昭和の評論家・歴史家・漢詩人
名は正敬(まさたか)または猪一郎、蘇峰は号。熊本県水俣(みなまた)に生まれる。家は代代庄屋兼代官を務めた。熊本洋学校に学び、キリスト教を知った。のち同志社に移り新島襄から洗礼を受けた。その後上京し、明治20年民友社を作り、雑誌「国民の友」を発刊、さらに「国民新聞」を発刊して、平民主義を喧伝(けんでん)し、言論人として確立した。生涯「近世日本国民史」100巻を完成させることに専念した。昭和18年文化勲章受章。享年94歳。